「大屋政子」夢の跡 病床でも浴衣にコマンドール勲章

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「母が亡くなって17年、今になって母の取った行動には、全て意味があったんだと思うんです」

 大阪・阿倍野区。亡き母が遺した帝塚山病院の理事長室で大屋登史子さんは、母・大屋政子(享年78)を振り返る。理事長机の椅子には、政子が愛用した、ショッキングピンクのカーディガンが今もかけられていた。もっとも大屋政子といえば、まず浮かぶのがミニスカート姿だ。

「存命中は母のミニスカートが本当に嫌いでした。『みっともないからやめて』と」

 政子は必ず、こう返した。

「あんたな、70過ぎて普通のかっこしてたら、誰にテレビから声かかる? どないして、テレビ出るんや?」

 あのミニスカファッションは、計算された上での戦略だったという。ソプラノの甲高い声から飛び出すフレーズは決まって、「うちのおとーちゃん」。生涯愛した「おとーちゃん」は、大手繊維業「帝人」の元社長、大屋晋三だ。

 政子の生まれは大正9年(1920)、大阪で「鴻池(江戸時代、大坂で両替商として成功した鴻池財閥)の次」という資産家の母と、天草出身の弁護士かつ衆議院議員、森田政義を父にもち、生粋のお嬢さんとして育った。19歳の時に父が急死したことで人生は暗転。父の取り巻き連中で賑わっていた森田家から人が離れていき、ここで舐めた辛酸や悔しさが「没落したらあかんねん」という、生涯変わらぬ人生哲学を生む。

 父の死後、大阪音楽学校に進むも中退して上京。戦中は軍属歌手、戦後はクラブ歌手として活動する政子の前に、大屋晋三が現れる。鳩山一郎の紹介状を持って、「森田先生の選挙地盤を受け継がせて欲しい」と頼みに来たのだ。その日、一旦辞した晋三が夕方、森田家に舞い戻り、いきなり政子に求婚してきたという。

 もっとも晋三には正妻がいた。だが政子も「八卦」の占いを信じ、駆け落ちする。この時、政子は24歳、晋三とは26歳も年が離れていた。

 昭和22年(1947)、帝人社長だった晋三は参議院選挙に当選。翌年発足した吉田内閣では商工大臣に就任する。25年に離婚が成立、政子は晋三の3番目の妻となる。すでに生まれていた愛娘・登史子にここでようやく戸籍ができた。

「私は23年の生まれですが、数カ月前に2番目の奥さんにも子供が生まれています。それ以外にも父にはいろいろ女性がいた」

 大臣の給料を家に入れないばかりか、借金(帝人が立て替えた選挙資金)は膨らむ一方。登史子さんが言う。

「母が働かなあかんけれど、父について監視してないと、浮気が心配。だから、不動産業を選んだんです」

 大阪・周防町に建てたトイレ・風呂・冷暖房付の単身者用マンションは大阪で初めての鉄筋コンクリート建て。政子はパイオニアだった。

「先見の明と、勘はあった。けど、『お金、たまるの待ってたら、建てられへん。先に建ててから考える』という人でした。銀行から次々、借金を重ねる。それは帝人社長という、父がいたから通用する論法だった」

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