“再建王”坪内寿夫 柴田錬三郎のためにゴルフ場を造成

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 169センチの身長ながら、体重およそ120キロの巨躯で大地を揺るがすように歩く。中央の財界からは遠く離れた辺鄙の地で企業家として台頭し、政財官の要人たちが固唾(かたず)を呑んで見守る、国策的企業再建を見事に成し遂げた。その男の名は坪内寿夫(ひさお)。人は、彼を語る時、瀕死の来島(くるしま)どっくや佐世保重工を立て直した辣腕を以て、「再建王」と評したり、「乗っ取り屋」「リストラ王」と揶揄した。規格外のスケールの大きさから、棺を蓋(おお)いてなお評価が定まらない人物なのである。

 大正3年(1914)、愛媛県伊予郡松前町で生を享(う)けた坪内が、県知事の要請で廃墟同然だった造船業、来島船渠(後の来島どっく)を再建したのは昭和27年(1952)のことだった。これを皮切りに皇室も利用する名門、神戸オリエンタルホテル、関西汽船などを次々と蘇らせる。とりわけ負債総額850億円を抱え、経営危機に瀕していた旧海軍工廠、佐世保重工の再建は坪内の名を全国に轟かせた。彼が率いる来島どっくグループはピーク時、ホテル、銀行、新聞社など180社を擁し、年商8000億円にも達した。口癖は、

「会社というものは潰してはいかん。従業員と家族を路頭に迷わせることになる」

 しかし子宝に恵まれなかった坪内は、自分のこととなると質素極まりなかった。社長室も社長車も持たず、自宅も中古物件、好物はちりめんじゃこだった。

 出色の佐世保重工再建は、実は政治的要素が強かった。時の総理、福田赳夫、財界の重鎮、永野重雄(日本商工会議所会頭)が直接坪内を説得した。彼をモデルに『小説 会社再建』を著した作家、高杉良氏はこう語る。

「背景にあったのは日米安保です。佐世保は軍事的に重要な場所にあり、なおかつ原子力船『むつ』の修理を引き受ける施設として国側は位置づけていた。だから是が非でも再建しなければいけない会社だった。政府が頼めるのはもはや坪内さんしかいなかったのです」

 昭和53年、坪内は佐世保重工社長に就任した。再建のために提示したのは、管理職460人を37人に削減し、15%の賃金カット、3年間の昇給・賞与停止、週休2日制の廃止……。「親方日の丸」体質の染みついた組合は猛反発した。

 ストに突入し、坪内の自宅にはカエルやヘビが投げ込まれた。佐世保重工再建に関わり、のちに坪内の養女と結婚する一色誠(奥道後交通)相談役はこう否定する。

「一人もクビにしていないし余剰人員は来島どっくに再雇用した。1600人の希望退職者の退職金83億円は、坪内が私財を投じています。また再建したのは全部頼まれたもので“乗っ取り屋”ではないのです」

 ストが続く中、辞めていく社員が後を絶たず、坪内は大幅に譲歩。ストは196日目で妥結する。来島どっくの仕事を佐世保重工にかなり融通した結果だが、4年後には黒字化に成功する。労使対立を解決し、誰もが匙を投げた会社を蘇らせてしまう胆力。その源泉はいったいどこにあるのか。

 坪内は『眠狂四郎』シリーズで名高い作家、柴田錬三郎の大ファンで、やがて昵懇(じっこん)の間柄となった。その柴田の担当編集者として、共に何度も松山の再建王のもとを訪れた、元「週刊プレイボーイ」編集長で、エッセイスト&バーマンの島地勝彦氏は、「シベリアで抑留された3年半の体験が大きいと思う」と語る。

 地元の商船学校を卒業した若き日の坪内は南満州鉄道に入社。川船の船長を任された。帰国後、神戸出身のスミコさんと見合結婚する。夫婦で再び渡満し、現地召集。敗戦後、シベリアで捕虜となる。島地氏が続ける。

「食糧不足と雀が凍死するほどの寒さで、次々と仲間が死んでいく。坪内さんは仲間のために、労働現場の肉の解体工場から豚1頭を盗んで、背負い、その上に服を着て隠したそうです。ストーブでその肉を焼いてみんなで食べた。のちに坪内さんを訪ねてきた仲間が御礼を言っていましたよ。義侠心、人を救うこと、人の喜ぶ顔が見たいというのが彼のバックボーンです」

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