まつエクしてる場合か「稲田朋美」 辞任となった“日報問題”の経緯
問題の発端は
しかし、稲田前防衛相への疑惑が払拭されたわけではない。
あらためて振り返ってみると、“日報問題”の発端となったのは、あるジャーナリストによる情報公開請求だった。
その当人、布施祐仁氏が明かす。
「海外メディアをチェックしていたら、南スーダンの首都ジュバで昨年7月、政府軍と反政府勢力が大規模な武力衝突を起こしたことがわかりました。でも、日本政府の発表は不十分だった。だから、7月16日、PKO派遣部隊とそこを指揮する中央即応集団の間でやり取りしたすべての文書の開示を求めたのです」
9月16日、防衛省はPKO活動に従事する人数を記した“人員現況”などを開示したものの、日報は含まれていなかったという。
「2週間後の9月30日、今度は7月7日から12日までの日報のみに絞り、再度情報公開請求を行いました。12月2日に防衛省から寄せられた回答は、不存在を理由にした“不開示”でした」(同)
当然、その後も“日報問題”は燻り続けた。
防衛省担当の記者が話を引き継ぐと、
「防衛省の回答に疑念を抱いた自民党の河野太郎代議士が再調査を求めたことで、火が点きました。あらためて、稲田大臣が日報を探すように指示を出し、統合幕僚監部に日報の電子データが保管されていることが判明したのです」
その結果、今年の2月6日、日報は公表されたのだが、それでも一件落着とはならなかった。
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