「加計学園」疑惑はフェイクニュースか
国会で追及をせよ?
加計学園問題を巡っては、新聞やテレビの論調と、ネットでの論調にはかなりの温度差がある。ごく大雑把に言ってしまえば、前者、旧メディア側は「怪しい」「総理の意向が働いた」という論調が主流なのに対して、後者の側には「怪しいのは文科省」「反安倍勢力の仕掛けたフェイクニュースだ」という論調も目立つ。
2日間の閉会中審査を終えた後も、安倍政権に対して厳しい姿勢を取る朝日新聞や東京新聞は、なお「疑念は晴れていない」と主張している。7月26日の社説を見てみよう。
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まずは朝日。
「大きな疑問がいくつも積み残されている」
「ウソをつけば偽証罪に問われる証人喚問で、(主張の異なる)両氏の言い分を聞く必要がある」
「臨時国会召集にただちに応じる必要がある」
東京も同様だ。
「このまま幕引きは許されない」
「臨時国会を召集し、真相解明を求めるべきだ。加計氏の証人喚問も求めたい」
いずれも真相を究明するには、さらに国会での議論が必要だ、と強く主張している。テレビでも同様の意見を言うコメンテーターは多い。
しかし、これに疑問を持つ人もいるのではないだろうか。
国会議員に期待しすぎ
国民の声として、「真相を国会で究明せよ」というものが存在することは理解できる。
だが、そもそも「疑惑」を発見して、「真相」を究明するのはメディアの側の仕事なのではないのだろうか。国会議員が素晴らしい調査能力を有しているという話は寡聞にして聞いたことがない。なにせ、週刊誌記事をもとにして平気で質問する議員も珍しくないのだ。
メディアが「真相究明」を国会に期待するのは、責任放棄に等しいようにも見えるし、親安倍の人々からすれば、「新聞やテレビがフェイクニュースを煽るだけ煽って、立証責任を放棄したようなものだ」ということになるだろう。
著書『フェイクニュースの見分け方』を刊行したばかりのフリー記者、烏賀陽弘道氏はこう述べる。
「最近、加計学園問題もフェイクではないか、といった質問を受けることがあるのですが、私自身はこの問題を取材していないので、何とも言えません。
ただ、新聞等のメディア側は、国会や証人喚問に期待し過ぎではないかと思います。そういうことを国会でやる前に、議員や関係者に新聞がファクトを調べ上げて、特ダネにする、というのがあるべき姿ではないでしょうか。実際に過去の疑獄事件などはそうだったわけです。
相手が言い逃れできないくらいのファクトを積み上げて記事として報じるのが筋であって、メディアが国会に真相究明を期待するなんて、『私たちには調査能力がないので、国会さんよろしく』と言っているのと同じでしょう。
国会議員にそんな調査能力なんてあるはずがありません」
ファクトがあれば事態は動く
たしかに証人喚問したとしても、「記憶にありません」を連発されればそれ以上話は進まないのは見えている。また、「言った」「言わない」の応酬が繰り返されることだろう。結局のところ、これまで同様の「政治ショー」が展開され、そして「疑惑は消えていない」という声があがるだろう。
第二次安倍政権発足後でも、メディアの報道がきっかけで大臣が辞任に追い込まれた例はある。小渕優子議員、甘利明議員の大臣辞任のきっかけは、それぞれ「週刊新潮」「週刊文春」が、彼らの違法性の疑いがある行為についてのファクトを記事にしたからである。
稲田朋美防衛大臣を窮地に陥れた「日報問題」は、フリージャーナリストの布施祐仁氏の情報公開請求が端緒となっている。
また、このところ相次ぐ「不倫」→「謝罪」(または辞任)という流れも、週刊誌側が決定的証拠を握ったうえで報じているからこそ、彼らも逃げられないのである。
もちろん、報道で政治が動くこと自体には賛否さまざまな意見があるだろうが、少なくとも上のような例では、報じる側がファクトをぶつけたからこそ、政治家側も無視できず、何からの対応を示しているのである。
ところが、現在、新聞やテレビは「疑惑」を言い募りながらも、首相や大臣らの「違法性」を示すような決定的証拠を何一つ提示できていない。延々と「怪しい」「疑念が残る」を繰り返しているのが実情だ。週刊誌よりもはるかに恵まれた人的資源、資金力を持っているにもかかわらず、である。
烏賀陽氏は、前掲書(『フェイクニュースの見分け方』)をこう結んでいる。
「人は何の根拠もない、事実とは真逆の内容を、強い断言調で語る。
それに疑義を挟む者を罵倒しさえする。
そしてそれは多くの場合、善意を装ってさえいる。
裏返して言えば、いかに断言調であろうと、善意を装っていようと、それに惑わされる必要はない。
『事実(ファクト)に基づいているのか、いないのか』
それだけを問えばよい。
そう、大事なのはファクトなのだ。」
二つの「学園問題」がダラダラと続くのは、内閣の危機管理能力の低さに加えて、「決定打」となるファクトを出せない旧メディア側の責任も大きい。ネット上では、もはやそうしたファクトが存在するかどうかにも疑いの目が向けられている。
だから「フェイクニュース」呼ばわりされるのである。