兜町の風雲児「中江滋樹」 国税に睨まれて頼った「田中角栄」の一言

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3000万円を持って角栄邸へ赴いたが――

 中江はすぐに3000万円の謝礼を持って、目白の田中邸へ挨拶に赴いたという。すると角栄は、彼を睥睨して言った。

「君みたいなガキから、カネはもらえない」

 カネを突き返された中江は、かねてからの関心事について角栄に尋ねた。

「先生、この国の政治は、どこで決まっているんですか」

 角栄は応接間の床を指し、こう答えた。

「ここだよ。中江君、ここでこの国のすべてが決まっている。国会じゃない、俺が決めてるんだ」

 凄い迫力を感じたという。

国会議員と会うと、名刺代わりに500万円は持たせた

 政治家との親交を大切にしていた中江は、「麻生太郎を首相にする会」に名を連ねていた。国会議員と会うと、名刺代わりに500万円は持たせたという。

「永田町で使ったカネは10億円。つまり、200人くらいに配ったことになる。俺が会った時は陣笠代議士だったが、今はそれなりの要職についている人も少なくない。名前は勘弁して」

 我が世の春を謳歌する中江だったが、時代の寵児の派手な行状に捜査当局が関心を持たないはずがなかった。証券取引法は、無免許での株式売買の取次を禁止し、投資家に融資を行い、株を買わせる手法も禁じている。彼の身辺には、確実に司直の手が迫っていた。昭和59年8月、逮捕情報が流れる中、彼は知人のつてで“政財界の黒幕”と呼ばれた笹川良一に、

「捜査を潰せませんか」

 と相談したという。

「すると、笹川さんは“すでに逮捕状が出ているらしい。フダが出たら、もう無理だ。ただ逮捕を1週間、引き延ばしてやることはできる”と言ってくれたんだ」

 これを受け、関係先に、証取法違反容疑で東京地検特捜部と警視庁のガサ入れが行われるほぼ1週間前の8月16日、中江は香港に高飛びし、その後、マレーシアなど東南アジアやパリなどで7カ月に亘って逃避行を続けた。翌60年3月、偽造旅券で秘かに帰国。九州や静岡を転々とし、潜伏生活を送る。その間に身辺整理を済ませた中江は、警視庁と連絡を取り合い、出頭場所を伝え、6月、ついに詐欺容疑で逮捕されたのである。顧客から集めた資金600億円のうち100億円以上は返済できておらず、そのうち18億3000万円分が詐欺罪に問われた。

「当時の五十嵐紀男という地検特捜部の副部長が、“紅白(歌合戦)4回の求刑(懲役4年)で済ませてやるから、日本の国を浄化するため、カネをもらいにきた政治家の名前を明かしてくれ”と持ちかけてきた。でも、断ったよ。俺が逮捕されると、離れていった政治家連中の変わり身の早さを思い、名前を出せばよかったと考えることもあるけどね」

「倉田まり子」との本当の関係

 中江と言えば、もう一人、忘れてはいけない存在がいる。交際が報じられた人気タレント、倉田まり子である。写真誌「フライデー」は、創刊号で中江と倉田のツーショット写真を掲載した。まさに“美女と野獣”だ。

 当時、倉田は人気絶頂のアイドルだったが、“テレ朝の天皇”と呼ばれた故・三浦甲子二(きねじ)テレビ朝日専務の紹介で、彼女のファンという中江に引き合わされた。後に、彼から目黒の豪邸をプレゼントされたと話題になる。実は、中江から7000万円を無利子で借りて倉田が建てたのだ。

「倉田まり子とは4、5回デートしただけ。男女の関係はないよ。もったいないことしたなあ。あんないい女、やっときゃよかったよ」

 と振り返る中江。7000万円の顛末については、

「三浦さんから、“倉田は月2億円も稼ぎがあるのに、事務所からもらう月給はわずか200万円”と聞かされた。そして、新たなプロダクションを立ち上げて、移籍させるというから、移籍料名目で7000万円を貸してあげた。そのカネがどういうわけか、目黒の豪邸に化けたわけだ。この頃、俺のところの社員が“ファッション誌を創刊したいので、3000万、出してほしい”と言ってきた。“創刊号の表紙とインタビューで倉田を使い、俺をインタビューに同席させてくれるんだったら、出してやる”と答えたんだ」

 インタビューは赤坂の料亭「新浅野」で行われた。会食の後、社員カメラマンがツーショットの写真を撮った。ところが、その記念写真が「フライデー」の創刊号に掲載されたというわけだ。

「実は、俺、『投資ジャーナル』が事件になったらヤバいと思って、倉田とのデートも遠慮していたんだ。でも、向こうが“それでも構わない”というから、逢瀬を重ねていた」

 しかし倉田は、「投資ジャーナル事件」の被害者からのバッシングにいたたまれなくなる。また東京国税局から、“「投資ジャーナル」には約1億2000万円の所得税滞納金がある。中江から貴殿への融資金は同社の債権になるから、徴収のための資産保全として目黒の自宅を差し押さえる”旨の通知を受けたこともあり、豪邸を売却。7000万円を全額、国税に返納したとされる。その後、倉田は引退に追い込まれ、煌(きら)びやかな芸能シーンから姿を消した。

「本当は、集めた預かり金の総額は当局が認定した600億円ではなく、780億円だった。600億円は返したが、残りの180億円は返せなかった。実はこのうち100億円は人に貸してしまって、返ってこなかった分なんだ。事件になりさえしなければ、預かり金だって全部返せた。検察は12年求刑したけど、判決は半分の懲役6年(東京高裁)。こんなのは無罪に近い」

 かつての風雲児はそう嘯くのだった。

週刊新潮 3000号記念別冊「黄金の昭和」探訪掲載

ワイド特集「時代を食らった俗世の『帝王』『女帝』『天皇』」より

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