“ホンダvsヤマハ”原付バイク戦争 過熱した販売合戦に、首を吊った店主も…
■ホンダとヤマハの関係性
一方、ヤマハは全国で女性向けの免許教室を展開し、潜在需要のみならず、新規需要を募っていた。自転車店、スーパーでもスクーターを売り始めていた。
55年6月、ヤマハの本体であるヤマハ楽器は突然、河島博社長のクビを切り、川上源一会長が社長に復帰する。河島博はホンダ河島社長の弟である。
ノンフィクション作家で『ホンダ神話』の著書もある佐藤正明が解説する。
「ホンダとヤマハはライバルではあったが、決して険悪な関係ではなかった」
明治30年(1897年)に日本楽器製造として発足したヤマハは戦時中は木工技術に目を付けた陸軍の下、プロペラ製造を開始する。
「しかし、日本楽器製造は機械技術の蓄積が乏しかった。当時の川上嘉市社長が技術指導を仰いだのが、本田宗一郎。宗一郎のアドバイスで製造スピードは飛躍的に上がり、川上は宗一郎を“日本のエジソン”とまで讃えたのです」(同)
川上嘉市の長男・源一が日本楽器製造を継ぎ、戦後、払い下げられた軍需工場を、昭和30年に分離したのが、ヤマハ発動機だ。宗一郎が本田技研を創設した9年後のことだった。
「だから、常に先を行く宗一郎への源一のライバル心は大きかった。それだけにヤマハ(楽器)が河島社長を切ったのは、ホンダには全力で対抗する意思表示に思えたでしょう」(同)
[2/3ページ]