愛華みれ、“宝塚の教え”でやり遂げた凄絶な「抗がん剤」治療 がんに打ち克った著名人

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愛華みれ

 宝塚歌劇団で花組トップを務めた女優の愛華みれ(52)は、結婚という人生の節目に際してがんと出合ったひとりだ。異変を察知したのは、結婚を前提に交際する男性の両親と、自分の兄・姉を引き合わせたとき。2008年2月のことだった。

 前日から、右の鎖骨あたりの「ピンポン球大のシコリ」が気になっていた。軟らかく痛みもない。深刻に捉えていなかったが、郷里の鹿児島から上京した兄に見せた途端、表情が変わる。

「ちゃんと医者に診てもらったほうがいいよ」

 あとになってわかるのだが、兄は愛華と同種の病になった友人を知っていたのだ。それから専門病院で検査を受けると、血液のがん、悪性リンパ腫と診断される。

 抗がん剤治療が始まったのは4月。副作用がとにかく凄絶だった。

 抗がん剤が注がれる左腕をダンプカーが何度も往復するように激痛が襲い、アイスピックでがんがん突き刺されるような鋭い痛みがひろがって、更に悪いことに、脱毛、強烈な嘔吐と便秘、うつ症状が容赦なく押し寄せる。

「自分が人でなくなるような感覚でしたね。丸太にでもなったような。生きているより死んだ方がマシなんじゃないかなと思ったり」

 それでも治療をやり遂げられたのは、99%落ちると言われたなかで宝塚音楽学校に合格した“諦めない気持ち”だったり、宝塚時代の教えである“辛いときほど笑え”の実践だった。髪の毛が抜けたときも、「高校球児と言われてます」と笑ってやりすごした。

 周期的にあらわれるうつ症状については、スポーツ・マッサージが本職のボーイフレンドの施術が奏功した。加えて、もう1つの特効薬を挙げるなら仕事復帰への情熱だ。所属事務所の社長は、

「夏のミュージカルには間に合わせましょう。治るよ、あなただったら」

 と言った。愛華は、

「すごく心強くて、すごくありがたかったです」

 と振り返っては涙ぐむ。

 8月の公演から逆算して何をすべきかを考えると、それに応えるように立って歩けた。検査数値のうえでは不可能なはずの改善ぶりに担当医は眼を瞠(みは)って、

「公演のチケット、ゲットしました」

 と言った。

「大丈夫じゃなきゃ買わないよね、と。うつで心が折れそうになっていたんですが、みごとに甦りました」

 7月前半まで抗がん剤治療が続いたので、最初は稽古場に顔を出せず、代役が稽古をしたDVDを寝ながら見て台詞を覚えた。

 稽古に行くことができたのは、初日の1週間前。放射線治療は舞台中も継続し、副作用で咳がひどかったけれど、舞台にあがると不思議と止まり、誰よりも元気に芝居をしたという。タカラジェンヌの復帰に舞台の神様が微笑んだようだ。

 翌09年1月1日午前1時1分、婚姻届を出した。愛華は、「がんは2人の愛を試す試練だったかもしれない」と考えている。

 がんをくぐり抜けて、“てげてげ”の境地に辿りついた。つまり、

「鹿児島の方言でいい加減という意味ですが、私は“良い加減”と捉えて頑張り過ぎず、ほどほどの生き方をするようになりました」

特別読物「がんに打ち克った5人の著名人 Part5――西所正道(ノンフィクション・ライター)」より

愛華みれ
1964年生まれ。宝塚花組の元トップ。

西所正道(にしどころ・まさみち)
1961年奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』、近著に『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』がある。

週刊新潮 2017年2月16日梅見月増大号掲載

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