原付バイクの覇権を争ったホンダ・ヤマハ「HY戦争」血風録
■対するヤマハは…
ヤマハの「パッソル」(Rainmaker47/Wikimedia Commons)
この年のロードパルの販売台数は25万台。もちろん、ライバルのヤマハも購入していた。
「すぐに乗ってみましたよ。それまでホンダは4サイクルばかりだったから、2サイクルの出来はまだまだ」
とは、翌年にヤマハが売り出す「パッソル」のエンジンを担当した笠英二郎。
「僕が開発に回ったときにはすでにうちのモック(完成模型)は出来上がっていた。スカートでも両膝を揃えて座れるステップスルー方式で、樹脂ボディにエンジンが覆われた、今のスクーターと同じ。これに合うエンジンを作れ、というわけです」
デザインのヤマハ、と呼ばれる所以である。開発は休みなしで1年かかった。
「ボディに囲まれたエンジンの熱対策が課題でした。強制空冷にするとフィンで馬力が失われてしまう。わずか50ccのエンジンに0・2馬力アップはハードルが高かった」(同)
52年3月15日に発売されたパッソルの価格は6万9800円。CMには八千草薫を起用した。
「CM契約金は1700万円って聞きましたね。でも八千草さん、免許を持ってなくてヤマハの免許センターで取って、オーストラリアで撮影したんです」(同)
ホンワカした八千草が“やさしいから好きです”といって乗るパッソルは、ロードパルを圧倒していく。
国内での二輪出荷台数は、ロードパルの発売された昭和51年、130万7166台。パッソル発売の年は、162万5193台と着実に需要を増やした。昭和53年にはヤマハはパッソーラを発売し、197万9771台へと拡大。
この年、参入せざるを得なくなったスズキの鈴木修・現会長は後に語っている。
「ライオンとゾウの闘いに、アリが巻き込まれた……」
そして54年1月、ヤマハに盟主ホンダの背中が見えた。単月のみではあったが、生産台数でホンダを追い抜いたのだ。ヤマハの小池久雄社長は勢いづく。
「チャンスが来た。オートバイ業界の盟主になる!」
ホンダへの宣戦布告だ。(敬称略)
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(2)へつづく
特集「ダンピングとリベートの嵐! 原付バイクの覇権を争ったホンダ・ヤマハ『HY戦争』血風録」より
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