原付バイクの覇権を争ったホンダ・ヤマハ「HY戦争」血風録

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■ファミリーバイクの誕生

 ノンフィクション作家で『ホンダ神話』の著書もある佐藤正明が当時を語る。

「昭和40年代後半、国内での二輪販売台数は、ずっと年間110万台前後で推移し、すでに飽和状態でした。ホンダは二輪世界一の名をほしいままにし、当時の国内シェアは50%を超え、2位ヤマハ発動機(ヤマハ)がその半分、スズキが更に半分、残りがカワサキ。ホンダはすでに経営の主力を四輪に移し、現地の二輪生産工場を四輪の工場に替える準備を進めていたのです」

 だがそのころホンダを愕然とさせる調査結果が出る。

「ホンダのバイクは親父くさい、という高校生のアンケートでした。若者の気持ちをくみ取ることについては自負があったのに……」

 とは、のちにホンダの広報部長を務める雨宮正一。二輪が疎かになっていたと、ホンダは市場調査を繰り返した。すでに、高校生にバイク免許を取らせナイ、乗せナイ、買わせナイ、の「3ナイ運動」の動きが出ており、それを打開するためには父兄にバイクに乗ってもらうのが早道だった。中でも免許を取得しながらバイクに乗ったことのない女性に向けたバイクは売れる、という結論に至る。ギアチェンジがなく、自転車のように軽く、安いバイクだ。

 エンジンは部品点数が少なく、軽い2サイクルに。ホンダのカリスマ本田宗一郎が嫌ったものだが、内緒で進めたと社史に残る。とことん切り詰めた設計に、悩んだのは始動方式だった。

 ボタン一発で始動する電気式のセルモーターはコスト面で無理、キックは女性に合わない。火薬を使った始動方式まで考えられた。たどり着いたのはゼンマイ。当初は“チョロQ”のようにバックさせてゼンマイを巻いたが、エンジンがかからなければ目的地からは遠ざかるばかり……。そこでペダルを踏んでゼンマイを巻く方式に。技術オタク集団・ホンダの面目躍如といえるものだった。発売は51年2月10日。価格は5万9800円。

 ファミリーバイクという新たなジャンルの登場、と同時に、後のHY戦争の火種が生まれた瞬間だった。

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