住友銀行の天皇「磯田一郎」会長 弱点を形成したマザーコンプレックス

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 磯田一郎には、こんなエピソードが残っている。行内の行事で、役員が横に並ぶ機会があった。磯田はまだ常務で、同期の常務と一緒だった。磯田の方が先任で、同期は2番手。けれど事務局の手違いで、2番手の同期が磯田の上席になってしまった。磯田はおとなしく座っていたが、行事が終わると“爆発”した。順番を間違えた事務局の課長は、磯田から激しく叱責され、“歩くのもままならないほど”のダメージを受けたという。

 磯田の側近だった旧住友銀行の元役員はこう語る。

「磯田さんは負けず嫌いで、地位にこだわり過ぎる面があった。“瞬間湯沸かし器”と言われていたが、それは事実と違う。怒りをためて、限界が来ると爆発する。だからこそ恐れられた」

 磯田一郎は昭和52年(1977)に住友銀行の頭取、58年に会長に就任し、十余年に亘って“住銀の天皇”として君臨した。彼の経営姿勢を一言で表現するならば、「向こう傷を恐れるな」という大号令のもとに断行された、収益至上主義である。経営危機に陥った安宅産業を救済し、マツダやアサヒビールの企業再建を手がけ、住銀を都市銀行の収益トップに導いた磯田は、57年に米国金融専門誌の「バンカー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれて“住銀の中興の祖”とも称されたが、一方で、強引な不動産融資等を繰り広げた。ある経済ジャーナリストが言う。

「磯田時代の住銀は、“火中の栗を拾う”体質で、バブルの火をつけて回っていた。カミソリという渾名そのままの人物で、触ると切れるような強面の“天皇”だった。マツダの再建時、動きの鈍い担当役員を呼びつけて、『マツダの車なんか船積みして太平洋に持って行って全部沈めてこい。そうすれば不良在庫が一掃できる』と怒鳴りつけ、真に受けた役員が青くなって震えていたという逸話も残っています」

 その磯田が失脚したきっかけは、平成2年初頭の『イトマン事件』だった。“天皇”が凋落した大きな要因は、意外にも長女への溺愛にあったと言われている。

 イトマン事件とは、中堅商社であったイトマン(当時は伊藤萬)を舞台に、3000億円が闇に消えたとされる、戦後最大級の経済犯罪である。財界に詳しいジャーナリストが語る。

「事件のキーマンの1人が、イトマンの故・河村良彦社長。彼は住銀の出身で、磯田のかつての部下です。イトマンは住銀の不良債権の飛ばし先となり、また、住銀自体が融資できない“危ない融資先”を担当。そのことからイトマンは“住銀のたんつぼ”と言われた」

 その“たんつぼ”に食いついたのが、バブル絶頂期に、銀座の地上げなどで知られた伊藤寿永光や、在日韓国人実業家の許永中らである。伊藤は土地開発計画をイトマンに持ち込んで常務に就任、許永中は詐欺まがいの絵画取引でイトマンを“食い物”にし、同社の乱脈経営を招いた。イトマンの河村社長も、この二人と共謀して会社に損害を与えたとして、特別背任容疑で逮捕された。結果的に住銀は巨額の不良債権を抱え、老舗商社だったイトマンは110年の歴史に幕を閉じた。

 イトマン事件の発端は絵画取引であり、その取引のきっかけとなったのが磯田の長女、黒川園子氏の存在だったのだ。当時園子氏は、セゾングループの高級美術品・宝飾販売会社「ピサ」に籍を置いており、絵画取引は、園子氏が河村社長に「ロートレックの絵を買ってほしい」と電話したことから始まったという。結局イトマンは、「ピサ」から123億円もの絵画を購入。これに絡んで、許永中がオーナーだった大阪の新聞社から、200点を超える絵画を適正価格の2~3倍という法外な値段で買い入れた。中には鑑定書が偽造されていたケースもあり、そうしたデタラメな取引が同社の経営破綻に繋がった。

「河村社長には、長女というカードを抱え込むことで“磯田の覚えをめでたくしたい”という意図もあった。磯田にとって長女は最大のウィークポイントで、伊藤や許はそこに食いついた。磯田はイトマンの経営状況を知っていたが、娘可愛さで河村社長を切れず、気がつくと彼らにがんじがらめにされていた」(先の財界に詳しいジャーナリスト)

 磯田の長女に対する愛情は、傍目からも明らかだった。彼女が幼い頃、銀行幹部たちが磯田の自宅に年始の挨拶に行くと、文字通り目に入れても痛くないという表現がぴったりの溺愛ぶりを見せていた。大学時代には、ねだられて米国製高級車パッカードを買い与えたこともある。

 やがて園子氏は、住友特殊金属工業の上級役員の子息と結婚するが、夫婦仲がうまくいかず離婚。本人よりも親同士の思惑が先行した結婚で、「このとき磯田さんはひどく悲しみ、父親として娘に負い目を持ったのだと思う」と先の元役員は指摘する。その後、磯田は「仕事がしたい」という娘のために、セゾングループの堤清二に頼んで仕事の世話をした。それが「ピサ」という会社だ。

「磯田さんは、女性に甘く、弱かった。もともと彼は軍人であった父親を早くに亡くし、女手一つで育てられた。その母親の恩に報いようと懸命に勉学に励み、三高から京大へ進学、文武両道で闘争心を発揮した。負けず嫌いは、その生い立ちに源があると思う。また母親への思いからかマザコン気味であり、それが磯田さんのコンプレックスで、女性に対する優しさ、弱さに繋がっていたのではないかと思う」(先の元役員)

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