「日本一金儲けの上手い政治家です!」竹下登への“ほめ殺し”街宣 皇民党事件を振り返る

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■運動中の生活

 87年1月下旬、大島党主は自治省に「竹下登輝励会」という政治団体を届け出た。以降、都内を中心に新潟や滋賀でも同団体名で街宣が展開されていく。常時30人弱のメンバーが、13~15台の車に分乗し“風変わりなエール”を送り続けたのだ。

「運動中はトップだろうが下っ端だろうが、全員で車中泊。組織の統制がとれなくなるから、総裁だけホテルというわけにはいかない」

 都内では、おもに有明埠頭で野営したという。

「まだ建物も何もなく、マリコンが入って海底の土壌改良をしていた時代。アシが生い茂って、道路が少しできている程度だった。工事現場の空き地に車を停め、一晩中入れる作業員宿舎の風呂も、頼んで使わせて貰った。地方だと、まず公衆トイレのある公園を探す。そこには駐車場もあるから、管理者に話して停めさせて貰い、銭湯に通ったのです」

 トイレの手洗い場の水を使って米を研ぎ、1台を食堂車にして当番が炊事にあたったという。

「朝はご飯にみそ汁と漬物、昼用におむすびを1人前2個作って、たくあんを包んで各車に渡す。夜はおかずを2品作った。飯の準備はもっぱら我々の仕事だから、日中は車に乗りながら『あそこのダイコンは安いな』などと、沿道の商店を見つくろっておき、あとで買い出しに行くわけです。コンロや釜を使い、プロパンガスで調理する。何といっても、寸胴鍋でみんな一緒に食べる連帯感が大切だった」

 就寝時は、車両の後部に畳を敷いて寝床にした。車の内訳は大型バス1台と、他はワゴン車やボンゴ、ジープなど、使える車はみな持ち寄った。燃料費もおのずと嵩みそうだが、

「ガソリンスタンドに交渉して運動の趣旨を理解して貰い、5円でも10円でも負けて貰った。軽油もまだ安かったし、夏場は別として、銭湯も2日に1回に抑えたりと、とことん切り詰めていた」

 ひと風呂浴びた後は、翌日に用いる「原稿」の推敲を重ねたという。

「マイクで話す内容は、毎日考えて変えていった。新聞やテレビのニュース、週刊誌は全部チェックしていた。今日は中曽根がどうした、竹下はこうだったなど、情勢は刻々と動いていたから、その時点で最も効果的だと思われる文言を練り上げていったのです」

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