「日本一金儲けの上手い政治家です!」竹下登への“ほめ殺し”街宣 皇民党事件を振り返る
■“竹下は「親」に許しを請うべき”
この街宣活動は5年後、思わぬ形でクローズアップされることになる。92年9月、一連の「東京佐川急便事件」で、稲川会系企業などに多額の債務保証を繰り返し、特別背任の罪に問われた渡辺広康元社長の初公判が開かれた。金丸元副総理から街宣を止めたいと相談された彼は、懇意だった稲川会の石井進元会長(91年9月死去)に依頼。ほどなく活動が収まったと、法廷で明らかになったのだ。
元首相への攻撃は、皇民党の創設者である稲本虎翁・前総裁(91年4月死去)を先頭に、87年1月上旬から始まった。当時「総隊長」として現場を切り盛りしていたのは、先代の死後に党を引き継いだ大島竜みん総裁(現・党主)である。
「すべては先代が考え、先代が始めた運動。私はそれに付き従っただけ。事件の関係者もほとんど故人となった今、あらためてあれこれ言うべきものではない」
そう前置きしながら、
「育ててもらった『親』たる田中角栄を蔑(ないがし)ろにし、『子』の竹下がその家財道具を奪って新たな勢力を持つ。平時ならまだしも、病に倒れて窮地にある状況で親を見捨て、派閥を作って出ていくとは、日本人が大切にしてきた伝統を踏みにじる行為だ。親を裏切るような人物が国のトップになるのは、教育上もおかしいではないか。そんな思いが先代を駆り立てたのだろう」
実際に先代は翌88年、別の刑事裁判に出廷。元首相を明智光秀になぞらえ“悪が天下を取るのなら無茶苦茶になる”と、運動の動機を述べていた。
「だから竹下は手順を踏んで『親』に許しを請うべきだ、と考えたわけです。我々はまず、その郷里である島根県掛合町から運動を始めた。実家の造り酒屋の前でも車を走らせたが、最初は応援と勘違いした人も多く、拍手を送られたりもした。それでも3日もすれば分かってくる。我々が通ると、窓やカーテンがぴしゃりと閉められる有様だった」
[2/4ページ]