稀代の政商「小佐野賢治」国際興業社長 古寺の軒先が極貧の原風景

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小佐野と手を組んだ田中角栄

 寒村の古寺の軒先を借りて雨露をしのぎながら、少年は、桑畑の灰色の風景を見ていた。この時、彼の胸に去来したのは、極貧の生まれに対する呪詛か、豊かな未来への渇望か。長じて、彼は、「10兆円を動かす」ほどの大資産家となった。時の政権中枢と結んで、バス事業や不動産、ホテル運営などを手がけ、一代で巨万の富を築いた、「国際興業」グループ総帥、小佐野賢治である。「昭和」という激動の時代はいかにして、「稀代の政商」を産み落としたのか――。

「記憶にございません」

 偽証罪を回避するために多用されたこの言葉をご記憶の読者も多いだろう。戦後最大の疑獄事件、ロッキード事件の国会証人喚問で小佐野が繰り返した台詞だ。

 この事件は、昭和51年(1976)2月、ロッキード社の対日工作が明るみに出たことに端を発する。47年、ロ社は全日空へ旅客機トライスターを売り込むため、30億円以上の工作資金を拠出し、日本における裏の代理人的役割を果たしていた右翼の大立者、児玉誉士夫氏に21億円を提供したとされる。ここから、小佐野を通じ、時の総理大臣、田中角栄に5億円の賄賂が渡ったことが発覚した。

 衆議院予算委員会での小佐野の言動に対して、日本中が怒りに沸き、「記憶にございません」はその年の流行語にすらなった。

 結局、彼は議院証言法違反で起訴され、56年に懲役1年の実刑判決を受けた。この窮地の際も、彼の脳裏にはあの原風景がよぎったのだろうか。

 小佐野は大正6年(1917)、山梨県東山梨郡山村(現・甲州市)で生まれた。粗末な小屋で養蚕を営む小作貧農の家で、4男2女の長男として育った。まさに赤貧洗うが如しの生活で、一家は住むところもなく、寺の軒先で暮らしていた時期もあったという。そんな中で、小佐野は尋常小学校高等科卒業後に上京。その際、父親からこう励まされた。

「いいこんでも、悪いこんでもいいから、日本一になってこい」

 東京では自動車部品店に就職。何でも貪欲に吸収する彼は、帳場で社長が接客する際に聞き耳を立て、経営者の在り方を胸に刻む。3年間で自動車部品の知識から経理まで学び尽くした。そして太平洋戦争が始まる年には、「第一商会」という自動車部品会社を設立した。

「どうすれば、政府に食い込んで、自分のビジネスチャンスを拡大できるか。小佐野はそればかり考えていた。そこで郷里の名士だった田邊七六という政友会の代議士を頼るんです」

 とは山梨の財界関係者だ。

「小佐野は、田邊を後見人にして、当時の軍需省に出入りするようになった。いつの間にか、軍需省の民間嘱託となり、戦火の拡大に乗じて暴利を得たのです」

 終戦直後、今度は米軍に“カネの匂い”を嗅ぎつけた小佐野は、GHQへの接近を試み、宿舎の提供など何かと便宜を図った。

「それが功を奏し、米軍の指定商になることができた。そりゃ稼げますよ。とりわけ朝鮮戦争が勃発すると、商機大拡大でした」(同)

 すかさず朝鮮半島へ進出し、米軍基地内でバスを運行させたのである。

「死の商人」……。周囲はそう囁き、眉を顰めた。

「周りから何と非難されようと金儲けに徹する。『金儲けは慈善事業ではない。儲けのある所に誰よりも早く食い込んで、なぜ悪い』という考えに徹していた」

 と語るのは、その生涯を辿り、『梟商―小佐野賢治の昭和戦国史』など、彼に関する多数の著書がある、作家の大下英治氏である。

「ゼロからのし上がった男で、まさに昭和の立志伝中の怪物です。太平洋戦争を利用して財を成し、朝鮮戦争、ベトナム戦争の渦中でもチャンス到来とばかりに暗躍した。社会情勢を見抜き、巧みに事業展開する経営者感覚があったのです」

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