「石原プロ」元幹部、渡哲也への怨嗟 「僕の退任は渡さんが主導した」

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■裕次郎さんのために

 だが、それを証言してもらう前に、仲川氏が長きにわたって内部から眺めてきた石原プロの“風景”を描写してもらう。

「渡さんの入社は1971年。石原プロが映画製作で巨額の借金を抱え、大変だった時期でした。石原プロといえば“鉄の結束”のイメージがありますが、あれは小林正彦専務(当時)が作り上げたものです。小林さんは裕次郎オンリーの人で、裕次郎さんが考えるであろうことを率先して実行に移していました。

 渡さんも借金苦時代に小林さんが、『お前がいたら稼げるから』と頼んで入ってもらったのです。渡さんが石原プロを支援するために、封筒に180万円を入れて持ってきたときも、裕次郎さんは『気持ちだけでいい』と受け取らなかった。そんなこともあって、渡さんは裕次郎さんを深く信頼していました。

 実は、渡さんは日活出身で、僕もそのころ日活にいた。そして77年、渡さんを追うように、僕も石原プロに入社したのです。僕が入ったころは借金も減り、これからという時期。会社に活気がありました。

 裕次郎さんは『太陽にほえろ!』や『大都会』の撮影現場で、自分の会社のスタッフをすごく褒めるんです。『黒部の太陽』を撮った金宇満司カメラマンなど、どこに行っても『日本一のカメラマンだ』と褒められていた。そうしてスタッフの士気を高めるのが上手で、誰もが裕次郎さんのために頑張ろうという雰囲気がありました。金宇さんなど1本撮れば100万円はもらえる人なのに、10万円で仕事をしていて、そんなふうに、みんなで石原プロを盛り上げていたんです。

 忘年会も毎年500人くらい集めてやっていましたが、呼ばれるのは裕次郎さんの意向で現場のスタッフが中心。くじ引きの景品に自動車などを出して、総費用は毎年5000万円程度かかっていましたね。

 81年に裕次郎さんが入院したときは、『あと5、6年しかもたないんじゃないか』と囁かれたりもしましたが、みんなで頑張ろうという気持ちが強く、秋に退院されたときは、本人も俳優もスタッフもうれし泣きしました。

 しかし、87年、裕次郎さんは帰らぬ人に。このとき、裕次郎さん抜きでは石原プロは存続できないと考えた小林専務が社員に、『いったん会社を辞めてくれ』と伝えましたが、誰も辞めませんでした。むしろ、誰もが『頑張らなきゃ』という気持ちで、89年の『ゴリラ・警視庁捜査第8班』のころには、持ち直してきた。みな『小林専務についていけば大丈夫だ』と信じていて、阪神・淡路大震災での炊き出しも、小林さんが先頭に立って行いました」

 だが、鉄の結束が謳われた石原プロにも、経年劣化のごとく、錆が侵食していた。原因はほかならぬ小林氏だった。

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