朝日新聞「声」欄100周年 ひた隠しにした戦時中の“声”
■“弱者の「声」を伝えてきた”?
さっそく順を追ってみてみよう。大正末期の25年2月の項では、〈婦人参政をめぐる投稿が増え、関連の紙上討論も掲載される。以後投稿欄の主要テーマとなる〉などと当時の紙面を解説し、女性の社会進出に喝采を送る投稿を紹介する。
次はといえば45年の終戦直後へ一気に飛んで、〈乳児に対する粉ミルクの配給が(中略)減らされました。一体どうして子供を育てよというのでしょう。乳児の生命を護るため、即刻配給を復活するよう、お偉い方々の努力を望みます〉という〈途方に暮れた母〉の悲哀を取り上げる。
政治の季節と呼ばれた「60年安保」の項に目を移せば、時の岸信介総理に対して〈組織も持たない私たちの声は決して首相の耳には入らない。だからといって、この沈黙が“声なき声”と思われることはたえがたい。私たちはもう黙ってはおれない〉といった投稿を再録。
戦前から戦後まで、朝日は一貫して時代の荒波に虐げられる“弱者”の「声」を伝えてきた――そんな自負を窺わせる構成なのだ。
加えて、記事では自ら過去に投稿した経験を持つ作家のドリアン助川氏が、こんな賛辞を送っている。
「『声』の重大な仕事は『語りつぐ戦争』。過去は大事。寄せられた声は国の財産と思っています」
東京大空襲のあった3月10日に合わせて毎年必ず投稿しているという作家の早乙女勝元氏も、
「『声』を結んでいくことで、戦争は絶対に繰り返さないという思いが未来につながるのです」
と繰り返し、「声」欄の意義を強調してみせるのだ。
■触れられない戦時中の「声」
事実、朝日がこの欄を反戦平和の象徴として世にアピールしたいという狙いは、この年譜からみてとれる。
直近の2015年4月の項では、〈安全保障関連法案に投稿相次ぐ〉と記され、〈「学生デモ 特攻の無念重ね涙」(大阪7月18日、東京・西部・名古屋7月23日)が反響を呼び、各地で朗読される〉として、その成果に胸を張るのだ。
だが、この記事には不自然な“空白”があった。
不思議なことに、冒頭で紹介したような戦時中の「声」については、一切触れられていないのである。
肝心の年譜には、先の大戦について、
31年 満州事変
37年 日中戦争勃発
41年 太平洋戦争開戦
45年 敗戦。食糧不足が深刻に
と、わずか4つの出来事が淡々と書かれているだけ。
この間、どんな「声」を掲載してきたのかについて言及はない。
これでは、朝日が戦禍に苦しむ人々の「声」をどう紹介してきたのか、100年を振り返る記事にもかかわらず、読者にはまったく伝わってこないのだ。
ならば、戦中の朝日新聞の縮刷版を繙(ひもと)いてみよう。
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