10分でわかる「東芝」の歴史と「転落のきっかけ」
■これで3度目の延期
債務超過に…
巨額の損失を抱えた東芝が、決算発表を延期――このニュースを見て、デジャヴに襲われた方も多いのではないでしょうか。無理もないことで、同社の決算発表延期は、不祥事以降、もう3度目です。
こうなると、実は「そもそも」の話がわからない、という方もいることでしょう。
そもそも東芝の不正経理問題ってなんだっけ?
何がきっかけだっけ?
どこが悪いんだっけ?
こうした「そもそも」の疑問、意外と人には聞きづらいものです。
そこで、昨年11月に刊行されたばかりの本、『会社はいつ道を踏み外すのか』(田中周紀・著)から、参考になりそうなところを引用してみましょう。(以下は、同書の「歴代3社長はなぜ「チャレンジ」を求め続けたのか?」より)
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■チャレンジというウソ
「2015年3月期連結決算の発表を6月以降に延期し、期末配当を見送る」
15年5月8日、日本を代表する総合電機メーカー「東芝」の突然の発表を、ご記憶の方も多いだろう。15年3月期のグループ全体の売上高が約6兆5000億円、従業員数は約20万人という超巨大企業の東芝では、決算に対する監査は何重にも行われる。予定していた決算発表を延期することなど、通常はあり得ない。
それから1週間後の同月15日、ようやく記者会見を開いた社長の田中久雄は「決算発表できず、期末配当を5年ぶりにゼロ円としたことを心より深くおわび申し上げます」と謝罪した。
実は東芝は、この会見の3ヵ月前の2月12日、証券取引等監視委員会(SESC)から金融商品取引法26条に基づく報告命令を受け、原子力発電システムなど社会インフラ関連事業の会計処理に関する開示検査を受けていた。
SESCには14年末、東芝内部から「社会インフラ事業で不適切な会計が行われている」という告発の証拠書類が持ち込まれていたのである。そんな事態の中では、通常なら5月下旬に行われる決算発表など、許されるはずもなかったのだ。
東芝では08年度から約7年間にわたり、西田厚聰(あつとし)(社長在任期間05年6月~09年6月)、佐々木則夫(同09年6月~13年6月)、田中久雄(同13年6月~15年7月)の歴代3社長が、「チャレンジ」と称して、不振の事業部門に利益の上積みや損失の圧縮を厳しく求めた結果、税引き前損益は約2248億円も水増しされていた。
その背景には08年9月のリーマン・ショック後に起きた世界的な景気後退や、社運を賭けて買収した米原子炉技術大手「ウェスチングハウス・エレクトリック・カンパニー」(WE)の業績が、11年3月の東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて劇的に悪化するといった、想定外の大きな変化があった。西田と佐々木という個性的で親分肌の2人による確執も、不正会計の遠因となったと言われる。
SESCは、パソコン事業部門などの利益水増しに金商法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いがあるとみて、東京地検特捜部への刑事告発を視野に調査を進めている。「上司に逆らえない風土」の名門企業で、不正会計問題が、なぜ起こったのか。
■「10年遅れの新入社員」がトップに
東芝は「からくり儀右衛門」と呼ばれた江戸時代末期の発明家、田中久重(初代)が1875年に創設した電信機工場、田中製造所がその原点だ。
1939年に芝浦製作所と東京電気が合併し、東京芝浦電気が誕生。以来、石坂泰三(第4代)と土光敏夫(第6代)という2人の社長が“財界総理”と呼ばれる経団連(現・日本経団連)会長のポストに就いたほどの名門企業だ。
チャレンジを言い始めた西田は1943年、三重県の生まれ。早稲田大学第一政治経済学部を卒業し、東大大学院で政治学を学んでいる時、官費留学していたイラン人女子学生と恋に落ち、帰国した彼女を追ってイランに渡った。
その彼女と結婚し、27歳で東芝と現地資本の合弁会社に入社したあと、才能を見込まれて75年に31歳で東芝本社に入社した。「10年遅れの新入社員」から社長にまで上り詰めた、超異端児のロマンチストだ。
80年代にはパーソナルコンピューター(PC)事業の立ち上げに携わり、同社のPC「ダイナブック」シリーズを世に送り出した功労者の一人となる。95年にパソコン事業部長になると、97年に取締役、98年に常務と出世の階段を駆け上がり、2005年6月に第15代社長に就任した。
■巨費を投じた米原子炉技術大手企業買収
社長在任期間中には「事業の選択と集中」を掲げて半導体事業などに投資。中でも06年2月に54億ドル(当時の為替レートで約6467億円)の巨費を投じて買収したWE社は、東芝と西田にとって社運を賭けた買い物だった。当時のWE社の純資産は2456億円で、東芝は4011億円もの差額プレミアムを支払ったことになる。
原子炉には沸騰水型と加圧水型の2種類があり、東芝はそれまで米国の「ゼネラル・エレクトリック」(GE)から沸騰水型の技術を導入、日本で原発を建設していた。日本では両方式がほぼ半々なのに対して、原発大国のフランスなど世界の潮流は加圧水型。そしてこの加圧水型原子炉を世界で展開していたのがWE社だった。
「WE社が東芝グループの一員になることは、極めて重要な意味を持つものです。沸騰水型、加圧水型の両方式を推進するリーディングカンパニーを目指します。WE社が当社グループの一員となることにより、当社原子力事業の規模は、相乗効果も合わせると、15年までに現状の約3倍に拡大するものと予想しています」
WE社を買収した際の発表文からは西田の高揚感がストレートに伝わってくる。そして、この買収交渉の際に西田の片腕として働いたのが、後任社長となる佐々木だった。49年に東京で生まれ、早大理工学部機械工学科を卒業して72年に東芝に入社した佐々木は、最初の仕事が東電福島第一原発の配管の設計。原子力事業部長も経験し、文字通りの原発エキスパートだ。自分と二人三脚でWE社の買収交渉をまとめ、東芝の原子力事業を急拡大させた佐々木に対して、西田は信頼感を高めた。
■「選択と集中」で急伸
西田の社長就任直前の05年3月期には売上高5兆8361億円、税引き前利益1112億円だった東芝の連結決算は、3年後の08年3月期には売上高7兆4042億円、税引き前利益2580億円に拡大。西田の社内の出身母体で、自らの影響力を最も強く行使できるPC事業も、価格競争激化に伴う00年代前半の赤字体質から脱却し、08年3月期には売上高1兆404億円、営業利益412億円と、PC事業として過去最高の業績を収めた。「選択と集中」で東芝を成長軌道に乗せた西田は、キヤノン会長の御手洗冨士夫に続く第12代日本経団連会長と目されるようになった。
だが好事魔多し。07年末以降の米国のサブプライム住宅ローン危機と、08年9月のリーマン・ショックによって、半導体需要が世界的に減少を始める。こうした中で08年5月からスタートしたのが、不振の事業部門に対する西田の「チャレンジ」要求だった。09年3月期(08年度)の東芝の連結決算は、売上高が6兆5126億円と前期比12%も落ち込み、税引き前損益は一気に2614億円の赤字に転落したが、「チャレンジ」によって損失を圧縮していなければ、赤字額は3361億円に膨らんでいた。
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■上司に逆らえない風土
「チャレンジ」というと響きはカッコいいのですが、要は部下に対して、達成不可能な目標を課した上で、強いプレッシャーを現場にかけて、虚偽の報告を挙げさせていたのと同じことです。当然ながら、そのような手法は長続きするはずがありません。
2015年の不正発覚後も、東芝の経営陣は「不適切な会計処理を要求したとは認識していない」と、現場に不当なプレッシャーをかけたことはない旨を述べています。
しかし、結果を見れば「チャレンジ」が事態を悪化させたことは明らかでしょう。『会社はいつ道を踏み外すのか』の著者、田中さんは、
「上司に逆らえない風土が組織に根強い日本社会では、すべてのサラリーマンにとって他人事ではない問題です」
と語っています。