綱取りより難しい「稀勢の里」の嫁取り 初恋は幼稚園の先生

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父親が進めた「環境作り」

 茨城県牛久市出身の稀勢の里が鳴戸部屋の門を叩いたのは中学卒業後、15歳の時である。彼を力士にするため、周到にレールを敷いたのは、父親の萩原貞彦さん(71)。電気関係の事業を営んでいた貞彦さんはボクシングの経験者だという。

「私たちの若い頃は、誰もが相撲をとっていましたし、村や町を代表して相撲をとるという願望を皆が持っていた。息子には、日本男児として立派なカラダを持って生まれてきたからには、将来的には日本の国技である相撲をやってもらいたいと思っていました」

 貞彦さんはそう語るが、実際、稀勢の里は幼い頃から他の子どもよりも一回り体が大きかった。

「お母さんが、頭が大きいから寛(ゆたか)の帽子を探すのが大変だと言っていましたね。幼稚園に通っていた最後の頃は体が大きくなりすぎて、園児服が着られなくなっていた。あまりに大きかったので、彼を抱っこした記憶はないです」

 と振り返るのは、稀勢の里が通っていた幼稚園の園長である。

「あの子の受け持ちの先生は大学を卒業したばかりの美人だったのですが、それが彼の初恋だったようで、その先生に何か言われると真っ赤になってしまって言うことを聞かないのです。その先生は今でもこの幼稚園にいます。“稀勢の里の初恋の相手はあなただったのよ”なんて言うと本人は笑っていますけどね」

 息子の順調な成長を目を細めて眺めていたであろう父親の貞彦さんはしかし、彼に「相撲をやれ」とは一度も言わなかったという。

「“やれ”というと子どもは嫌がるものですからね。自然と相撲に興味を持たせるための環境を作ることから始めました。具体的には、何となく相撲の話をしたり、気が向いた時に息子と相撲をとったり、普段からテレビの相撲中継を見せるようにしたり……」

 と、貞彦さんは語る。

「また、小学4年生から6年生を対象にしたわんぱく相撲の大会には毎年出ていました。市の大会、県の大会があってそこで好成績を収めると国技館で行われる全国大会に進める。息子は3年連続で全国大会に出場しました。中学時代は相撲は一切やらずに野球をやっていましたが、オヤジの私が相撲が好きだったので本人も興味を持ち、こちらから鳴戸部屋に入門をお願いしに行ったのです」

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