田中角栄を支えた“もう一人の田中” 右翼の黒幕と協力した資源外交
田中角栄
■タフネゴシエイター「田中角栄」の残像(下)
ジャーナリストの徳本栄一郎氏が、独自に入手した機密解除文書を元に、「タフネゴシエイター」と評された田中角栄の姿に迫る。
***
世間の慣習や前例に囚われない田中の豪胆さが垣間見えるもう一つのエピソード、それが首相在任中に推し進めた資源外交、特に石油の確保である。
すでに高度成長で日本の石油消費は急増しており、ほぼ全量を海外に、それも政情不安定な中東に依存していた。このまま経済成長が続けば石油が足りなくなると危惧した田中は自ら首脳外交を重ねて供給源の拡大を図っていた。
だが石油は産油国に加えてメジャーと呼ばれる国際石油資本や大国の思惑が複雑に絡む魑魅魍魎の世界だ。『臨界』(新潮社)でも描いたが、ここで首相を側面から支援した“もう一人の田中”が登場する。
速報「娘はフェイク情報を信じて拒食症で死んだ」「同級生が違法薬物にハマり行方不明に」 豪「SNS禁止法」の深刻過ぎる背景
■東京タイガー
七三年九月から田中首相一行は欧州各国やソ連を歴訪しているが、私はロンドンの国立公文書館で当時の英国政府文書を調べてみた。そこで首相の直前に訪英した日本の財界人ファイルを入手して、その中の国際エネルギー・コンサルタンツ社の社長“Seigen Tanaka”という名前が目を引いた。田中清玄、海外で「東京タイガー」と呼ばれた国際的フィクサーで右翼の黒幕である。
戦前の武装共産党で書記長を務めた清玄は治安維持法違反で一一年を獄中で過ごし、その後は右翼に転向して熱烈な天皇主義者となった。また海外の石油開発などの事業を手掛けて中国のトウ小平やアラブ首長国連邦のシェイク・ザイド大統領、欧州の名門ハプスブルク家の当主オットー大公、山口組三代目の田岡一雄組長など絢爛たる人脈を持つ人物として知られた。
この訪英で田中首相は国際石油資本ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)が保有する北海油田の権益獲得を目指したが、その交渉で英国政府やBPとの仲介役を果たしたのが清玄だった。彼の元側近によると、折に触れて入手した国際情勢に関する情報を個人的に田中首相に届けていたという。現職の首相と右翼の黒幕が手を取り合って石油確保を図るなど今からでは想像もしにくいが、当時のわが国はまさにオール・ジャパンで資源外交に取り組んでいたのだった。
そしてこれらの動きは米国のCIAも大きな関心を寄せていたようだ。機密解除された当時のインテリジェンス報告に次のような記述がある。
「日本のエネルギー問題に於ける長期的目標は国際石油資本への依存を減らしつつ安定的な石油供給源を確保する事である」
「それを促進するため日本政府は産油国との直接取引をしたいと考えており、(中略)日本企業も海外勢が保有する石油権益を買い入れて生産量の一部を獲得しようとしている」(七三年一一月九日、CIA報告書)
その上でこの報告はアブダビや北海、インドネシアなどでの日本の権益の交渉状況に触れているが、これらはいずれも田中首相や清玄が手掛けた案件である。
またこのロンドン滞在中に清玄は独自に入手した情報として近く中東で戦火が上がる可能性が高いと警告する書簡を英国政府首脳に届けているが、それは翌月に勃発した第四次中東戦争で的中した。そしてそれが田中首相の運命を狂わせてしまったのだった。
■反面教師
七三年一〇月六日のエジプトとシリアによるイスラエル奇襲で幕を開けた第四次中東戦争でアラブ産油国は石油戦略を発動してきた。消費国の対イスラエル外交の変更を求めて原油の生産削減を通告し、各国にパニックが広がる中で一一月中旬、今や国務長官となったヘンリー・キッシンジャーが田中と対応を協議するため急遽来日した。その時の米側議事録からは想定外の事態に狼狽する田中の様子が見えてくる。
「田中は今回の中東危機では米国よりも日本に大きな影響をもたらす面があり、それは石油だと語った。(中略)石油積み出しを二〇パーセント削減したアラブはさらに三〇パーセントまで減らすと通告している。そのため政府は今月二〇日までに電力消費を一〇パーセント減らさねばならないが産業界への影響は甚大だと言う」
「(田中によると電力消費削減は)来年一月から三月には一五から二〇パーセントの幅に拡大され、その場合、同時期のGNP成長率はマイナス五・五パーセントまで減少するだろう。これは深刻な問題であり(中略)来年三月末までに日本の石油在庫は最低限まで落ち込むと言う」(七三年一一月一五日、国務省文書)
おそらく事前に官僚から綿密なレクチャーを受けたのだろう。キッシンジャーに口を挟む間も与えずに、必死の形相で機関銃のように数字を捲し立てる田中の顔が目に浮かぶ。その後、政府は原発建設を進めるため地元に巨額の交付金を落とす電源三法を制定させるが、ここで重要なのは、じつは懸念とは逆に日本の原油の輸入は減っていなかったという事実である。
危機の最中に通産省は原油供給量のシミュレーションを行ったが、洋上のタンカー輸送量の計算ミスなどが重なって削減量を過大に見積もっていた。石油は足りていたのだ。誰よりも官僚を信頼して大切にしていた田中が、その同じ官僚にミスリードされたのは皮肉としか言いようがない。
さらに悲劇なのは石油危機が直撃した頃、田中が長年の悲願である日本列島改造を推し進めていた事だった。冒頭(※「上」の冒頭)で紹介した新潟の角榮記念館には、これまで地元の市町村長から贈られた古い感謝決議がいくつも展示されている。高度成長期に鉄道や国道を誘致してくれた事への感謝状で、さらに田中は官僚のブレーンを結集して新幹線や高速道路網を全国に広げようとしていた。だがそれは全国で土地投機を引き起こし、折しも石油危機も加わって列島改造は狂乱物価の元凶とされてしまった。いわば田中は最悪のタイミングで最悪の政策を進めていたのだ。
■コンプレックス
では私たちは田中角栄という政治家の光と影をどう見たらいいのだろう。それには長年側近として彼を見てきた秘書の早坂茂三の証言が正鵠を得ているように思える。
「角栄は政治家として終わりを全うできなかった。理由はいろいろある。ロッキード事件があった。だが、一番の原因は自己過信である。彼は自分の力に絶大な自信を持っていた。同時にデリケートな田中は、その深層心理の中にコンプレックスを隠し持っていた。その対象は東京帝国大学、学者、素性のよいエスタブリッシュメントである。私はこの不世出の鬼才に二三年間、仕えたが、折にふれて、親方のコンプレックスを垣間見た。『帝大とか学者といってもロクなやつがいない』とか、『育ちがいいだけでは、ものの役に立たない』という親方の話を聞いて、私は逆に、彼がエリートに抱いている一種のまぶしさ、遥かなるものへの思いを強く感じた」(早坂茂三著『捨てる神に拾う神』)
そして早坂は田中の偉大さはこのコンプレックスをバネにして深夜、自宅の寝室で鬼気迫る勉強を続けた事だと言う。それは東大卒の佐藤が手を焼いた日米貿易摩擦を小学校卒の田中がたった一年で解決した事でもよく分かる。
だがそれは米国の国務省文書がいみじくも指摘したように長期的戦略より短期の解決、そして国際情勢をも無視した猪突猛進の政治だった。ここに彼を殊更「天才」と持ち上げる事への危うさがある。今も多くの日本人に愛憎と郷愁の念を抱かせる田中角栄とは“愛すべき偉大な親父”であり、同時に“とてつもない反面教師”であった。
(文中敬称略)
***
特別読物「米英の機密文書にタフネゴシエイター『田中角栄』の残像――徳本栄一郎(ジャーナリスト)」より