昭和天皇の「すい臓がん」を報じた朝日新聞 当時の宮内庁担当記者が語る
■「昭和天皇」玉体にメスが入った最後の474日(3)
昭和62年9月、史上初の玉体にメスが入った手術によって、昭和天皇の「がん」が判明する。だが、その告知を巡り、医師たちの意見は対立。病理検査を担当した東大医学部病理学研究室の浦野順文教授は公表を主張するも、侍医団は隠し続ける方針を貫き、世間に公表された病状は「慢性膵炎」だった。自身もまた肝臓がんに蝕まれていた浦野教授は、手掛けた「仕事」の行方を見届けることなく、63年1月に世を去った。
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昭和の終焉を伝える「週刊新潮」1989年1月19日号
63年を迎え、昭和天皇は新年一般参賀で、
〈私の健康について心配してくれてありがとう〉
と挨拶され、続く誕生日や春の園遊会でも元気な姿を見せられた。が、病魔は容赦なく忍び寄り、また告知を巡る問題も再び鎌首をもたげてきた。冒頭((1)参照)で述べた63年9月の大量吐血ののち、高木顯・侍医長は21日の会見で、
〈貧血と黄だんという症状はあるが、吐血もなく、大変安定した状態で、われわれ侍医団としてもホッとしている。(中略)『ヤマ』が緊張したことを意味するなら、『ヤマを下った』という方がよい。突然、病状が現れたけれど、もう下っているんだ、ということ〉(回想録『昭和天皇最後の百十一日』・全国朝日放送)
と述べていたのだが、そんな折、思わぬ形で世間に病状が“告知”されることに。「朝日新聞」9月24日夕刊一面には、
〈天皇陛下 ご重体〉
とあり、以下の見出しが大きく打たれていた。
〈すい臓部に「がん」 お気持ちを考え公表せず〉
■「ばかもの!」
追って共同通信も“がん記事”を配信。宮内庁は長官自ら抗議で応酬した。当時、朝日新聞の宮内庁担当記者で、現在はスペインで豆腐店を営む清水建宇氏が振り返る。
「62年に宮内庁が『膵炎』と発表したことについては、我々だけでなく記者会でも『それはないでしょ』と受け止められていました。何より玉体を切るなんてよほどのことで、陛下ご自身も自然科学の知識が深く、侍医から説明を受ければある程度はご理解できるはず。これらを総合すると“ありえないはずの手術”を行う状況で、膵炎などありきたりの病気のはずがない、という見方が、もっぱらでした」
自社の「がん報道」については、
「陛下が吐血されて以降、記者は宮内庁長官室や侍従長室に入れなくなっていた。そこで私は、早版が刷り上がる昼頃、夕刊の新聞配達を引き受け、幹部の部屋に届けていました。『夕刊です』と言うと、皆さん扉を開けてくれたから。緊急事態が起きれば吹上御所に急行するはずで、所在確認ができる重要な機会だった。で、その9月24日、夕刊を届けた時、珍しく山本悟侍従長に『ちょっと待て』と呼び止められた。普段は温厚な彼が『ばかもの!』と叫び、私の尻を叩いたのです」
高木侍医長も、大喪の礼の直前、他ならぬ朝日新聞のインタビューで、
〈のぞき趣味というか、告発趣味というか、もう少し日本人的な考えであったら、差し控えてほしかった〉(平成元年2月22日夕刊)
と、憤りを露わにしていた。それでも清水氏は、
「この記事を陛下がご覧になったとは考えられません。ある時、幹部に『新聞はお床でご覧になっていますか』と尋ねたことがある。『(吐血後は)とてもじゃないがそんな状況ではない』と、きっぱり否定していました」
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特集「『昭和天皇』玉体にメスが入った最後の474日 『進行すい臓がん』病状告知を巡る医師たちの攻防」より
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