勝谷誠彦、自分に責任を持てないバカは「死んだらええやん」 日々嘆くニッポンの“バカ基準”

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■バカな私が日々嘆くニッポンのバカ基準(上)

勝谷誠彦氏

 バカとは社会的常識に欠けた存在である。社会生活はバカでない者を基準にすればいいものを、バカを標準としているのが今の日本。バカに合わせたらそうでない者が迷惑する。それを「バカ基準」と命名した勝谷誠彦氏が近年益々、劣化するバカ実態に警鐘を鳴らす。

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 最初に断っておくが、私はかなりのバカである。そこらじゅうで頷いている友人知人、おね~ちゃん(見栄)の姿が見える。「ばっかじゃないの」と言われることが日常茶飯事だ。

 いいのであるそれで。「ばっかじゃないの」のひとことで私は「慮外者(りょがいもの)」となる。この日本語はまことに美しく「自分たちの常識や価値観から外れたひとびと」を優しく、笑いながら見守っているという価値観がある。そこには差別も多少はあるかもしれないが、多くは区別だ。「あっちの世界のひとたち」として棲み分けをしているのだ。

 ところが最近、いや、かなり前からこの垣根が壊れてきてしまったような気がして私はならない。「あのひとはアレだから」と別のところにいたのが「あのひと」を良民常民の中に入れてしまって、彼ら彼女らが助かるように基準そのものをかえてしまっているのだ。バカを代表して言わせていただくと、これはたいへんに申し訳ない。バカとしてはいたたまれない。

 バカではあるが、そのへんのバカと一緒に銀行のATMで「携帯電話のご使用はお控え下さい」と言われたり、コンビニで「ポイントカードはお持ちですか」と言われるのが、どうも気に食わないのだ。私は別種のバカであって、種族が違うと言いたい。わからないか。しかし、今回はそういうことについて書く。「バカ基準とは何か」ということだ。

■「死んだらええやん」が口癖

 これを機にバカについてちょっと考えた。私が最初に気づいたのはまだ小学校に上がる前だったかも知れない。エスカレーターに乗っていると、のべつまくなしにアナウンスがかかる。みなさんにも記憶があるだろう。「良い子のみなさん……」でたいがい始まるのである。そのころから根性がひねくれていた私は「良い子やないから聞かんでええやろ」と考えていた。

 続いて「体を乗り出したりすると大変危険です。やめましょうね」。アホか、と心から思った。体を乗り出したら壁との間にはさまれて死ぬということは、わかりきったことやろ。そんなアホ、死んだらええやんけ(関西の中でも下品な尼崎市で育ったのです。すみません)。そういうところで育ったので、そういう考えを持ったのだろう。

 同じく子どものころに「なんでやろ」と首を捻っていたのが国鉄の「危ないので白線の内側に下がって下さい」だ。命がおしければ、誰だって下がるだろう。毎日何十回もそれを言っている職員は疑問を感じないのか。「死んだらええやん」はずっと私の口癖であった。

 実はこの「死んだらええやん」は「バカ基準」と裏表なのである。自分に責任を持てないバカは「死んだらええやん」。社会としてはバカがひとり減って、コストが下がる。

 海外での仕事が増えたころ、私はこれに確信を持った。「あなたの責任において、このエレベーターに乗りなさい」的な表示が多いのだ。もちろん、訴訟社会において、オーナーがややこしいことをさけるためなのだが、そこにある意味の矜持を感じた。私は耶蘇の徒は余り好きではないが、イスラエルの沙漠は好きで、考えの基本はなんとなくわかるものである。

「そうだろうな」と感じた。まあまあ、なあなあはないのである。バカに対して彼らは「お前はバカだ」とハッキリと言う。言われたものは、自分がバカでないということを反証しなくてはいけない。これがなかなか難しい。バカだと決めつけるのは簡単だが、バカではないと言うには「偉ぶらなくて」はいけない。私も所属している吉本興業が楽なのは、ほんわかほんわ、ほんわかほんわと、アホの音楽を流して「アホですからあ」から始まっているからだ。あざとい商売と言うほかはない。

■還暦が未成年に見えるか!

 だが、この程度ならまだよかった。地下鉄ホームには白線どころか、スマホを覗きながら歩くバカの目の端にも入るようにと紅白の注意喚起シートを貼り付けた。大マスコミはベビーカー事故を受けて、などと報じたが東京メトロは歩行中のお客様の線路内への転落防止と謳っている。ことほど左様にバカのレベルが落ちてきている。

 また、私が歳をとって丸くなったことを特にコンビニ各社は感謝するべきだ。「20歳以上である」のボタンを押せとゆる口のしんどいバイトが言う。見たらわかるだろうと。それ以前に、私が現れたとたんに「あっ、カツヤさんや」とかビビッているのである。それでもポチッとな、をする。何をさせられとんねん、たかだかコンビニのチェーンに、だ。

 以前、梅沢富美男さんとその話をしたことがある。「あたしが、女に見えるというなら許すわよ。だけど、この還暦の私が、どこが未成年なのよ。言ってみなさい」とタンカを切ったそうだ。さすがだが、それでもポチッとせざるをえない。気の毒なバイトの少年たちは責任をとれないのだから。

 長くなった。「バカ基準」としてはいちばんわかりやすいと思ったので。誰も責任をとりたくないのである。だからいちばんバカに責任をとらせることなど無理だと知っておいた方がいい。

 みなさんがいちばん毎日触れているというか、いやなシャワーを浴びているのが、鉄道の放送だろう。「白線の内側までお下がり下さい」「入ってくる列車の風圧に押されることがあるので、気をつけて下さい」。そんなもので死ぬ奴は死ねばいいのである。社会におけるコストとしては安くなっていいと私は考える。まさにバカを排斥しないバカ基準の典型だろう。

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 バカな私が日々嘆くニッポンのバカ基準(下)はこちら

特別読物「バカな私が日々嘆くニッポンの『バカ基準』――勝谷誠彦(コラムニスト)」より

勝谷誠彦(かつや・まさひこ)
1960年、兵庫県生まれ。私立灘高校を経て早稲田大学卒。文藝春秋社に入社し記者として活動。現在は小説家、コラムニストとして活躍。食や旅のエッセイで知られる。

週刊新潮 2016年11月10日神帰月増大号掲載

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