ベストセラー『住友銀行秘史』への反論 “嘘から生まれた男”と書かれた「伊藤寿永光」語る
バブルの狂騒を象徴し、かつ終焉を告げたのが「イトマン事件」であった。あれから25年、回顧録『住友銀行秘史』(講談社)が話題を集めている。そのさなか、事件の“主役”伊藤寿永光(すえみつ)・元イトマン常務(71)から、旧知のジャーナリスト・今西憲之氏に便りが寄せられた。
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バブルの狂騒を象徴し、かつ終焉を告げた「イトマン事件」(写真はイメージ)
1通の手紙が私のもとに届いたのは11月11日のことだった。封筒には、見覚えのある筆跡が走っている。
「もしや、これは──」
そう直感して裏面に目をやると、思った通りの差出人名が記されていた。
〈伊藤寿永光〉
遡ること四半世紀、1991年に大阪地検と府警が強制捜査に着手したのが、戦後最大の経済事件と言われる「イトマン事件」だった。大阪の老舗商社を舞台に、主力行だった住友銀行から巨額の資金が引き出され、実に3000億円が闇に消えたとされる、空前の背任事件だ。
“主犯”の一人とされた伊藤は、その前年までイトマン常務の立場にあった。住銀元常務でイトマン社長の河村良彦(懲役7年)や“闇の帝王”と呼ばれたフィクサー・許永中(懲役7年6月、罰金5億円)らとともに特別背任の罪に問われ、2005年10月、伊藤は最も重い懲役10年の実刑が確定したのである。
当時の報道などでは、愛知県出身で結婚式場経営者だった伊藤は“地上げのプロ”とも言われていた。自身が関わった「雅叙園観光」の仕手株を巡り200億円の返済を求められていたところ、河村や“住銀の天皇”と称された磯田一郎会長と出会い、急接近。雅叙園観光の紛争に介入していた許永中もまた、イトマンへの関与を深め、以後、ゴルフ場開発や絵画取引などの名目で多額の融資が引き出されていった。
河村は10年に故郷・山口県で死去。また許は服役中に韓国へ移送され、13年に仮釈放されて以降も当地に滞在しているという。伊藤も長らく服役し、一連の出来事はすでに“歴史のひとこま”となった感があった。
が、バブルとともに弾けたその事件は、ふたたび巷を賑わすことになる。住銀の取締役だった國重惇史氏(70)が10月初旬、当時を回顧した『住友銀行秘史』を刊行。発売からわずか10日間で10万部を超すベストセラーとなったのだ。
國重氏は当時、業務渉外部の部付部長だったという。「イトマン問題」が世に知られる契機となった内部告発文書(通称「Letter」)を、イトマン社員を装って自らしたため、大蔵省などへ送ったと初めて明かし、残していたメモをもとに、内部から見た事件について詳述している。
興味深い点は多々あるものの、違和感を覚えたのも事実である。同著の記述は、私が取材してきたイトマン事件、とりわけ当事者の公判や裁判所で審理された証拠や証言内容とは、随所で食い違っていたからだ。
実は06年5月、伊藤が収監される直前、取材を通じて面識のあった私は、本人から事件に関する膨大な「資料」を託されていた。伊藤は当時、東京・港区にある弁護士事務所のワンフロアを、すべてイトマン事件の裁判資料で埋め尽くしていた。その一部を預かったわけである。
國重氏の著では、関係者がいずれも実名で登場する。そもそも、〈墓場まで持っていくつもりだった〉メモを公開したのは〈事件を語れる人間の一人として記録を残しておくのも、自分に与えられた役割の一つ〉と考えたからだという。住銀関係者を除くと、やはり頻出するのは伊藤の名であり、
〈「天性の詐欺師」〉
〈嘘から生まれてきたような男〉
穏やかならざる表現が並び、本人が目にすれば黙ってはいまい──。と、何とはなしに思っていた。
■許永中との「衝突」
そんな折に、伊藤からの手紙。便箋にして20枚、関係者を通じて本人の承諾が得られたので、ここに公開する。重複表現など読みづらい箇所は修正を加えているが、内容はそのままである。冒頭には、
〈二度と事件のことは語らないと決めていました。裁判で無罪主張は退けられました。今も釈然としない思いはありますが、罪と向き合い反省し、これからは静かな人生を送りたいと思っていました。然し、この本の存在を知り、一読して私は怒りに打ち震えました。さも私が住友銀行、イトマンから3000億円を流出させたと言わんばかりですが、とんでもない。よくもこんな嘘ばかり並べることが出来るなと、あまりにデタラメな内容は到底許し難い〉
案の定、張本人は溢れんばかりの“読後感”を抱いていたのだった。続けて、
〈何故、全く面識もない國重氏から、ここまで悪人呼ばわりされなければならないのか。封印するつもりだったイトマン事件ですが、もう我慢なりません〉
あわせて同著の個別箇所を示して反論し、〈以前にお渡しした資料でチェックしてほしい〉と言う。とりわけ裏社会や暴力団と関わりがあるかのような記述は看過できないようで、例えば、
〈伊藤寿永光氏、許永中氏。普段であれば銀行と付き合いもなく、裏の世界に生息している人物が跋扈し、好き放題に暴れまわっていた〉
とのくだりが抜粋されていた。
在日韓国人実業家の許は、政財界のみならず裏の世界にまでネットワークを張り巡らせ、しばしばバブル経済の暗部を象徴するような人物として語られる。実際に公判の冒頭陳述では許と山口組との関係について触れており、また「絵画案件」事件の法廷でも、
〈許の使いという暴力団関係者とおぼしき人物がやってきて、山口組の名刺を見せられた〉
との証言がなされていた。が、伊藤については、少なくとも14年間続いた一連の裁判で具体的な「関係」に言及されたことはない。それは他ならぬ住銀が証明していると、伊藤は以下のように綴っている。
〈國重氏は「裏の人間」と私のことを言っていますが、日本を代表する住友銀行が130億円もの金額を保証する。裏の人間だったらそうなるのでしょうか? おまけに相手は海外の有名銀行です〉
この「130億円保証」とは、かつて伊藤がフランスの大手金融機関から融資を受けた事実を指すとみられる。私が預かった膨大な資料のうち、90年3月30日付の約束手形では、伊藤が社長を務める「協和綜合開発研究所」に融資がなされ、住友銀行が保証人となっているのが見てとれる。
こうした「物証」をもとに伊藤は、
〈住友銀行が裏の人間に保証したとなれば、国際問題になりますよ〉
と、筆致を強めるのだ。さらには「傍証」として、
〈1点だけ書きます〉
そう前置きし、事件のもう一人の主役である許永中との「衝突」をも告白している。
〈イトマン名古屋支店では一度、許氏との商談で命を落としかねない不測の事態が起こったことがあります。それは許氏が加藤氏(当時の支店長)と話している最中、私が同席した時でした。許氏の絵画をイトマンが買うかどうかの話し合いで、私が「加藤さんが困ることのないように」と言った時です。許氏は「お前は関係ない! 加藤さんと話しているんだ、出ていけ」と立ち上がり、テーブルにあったガラス製の灰皿を大きな手で掴むと、私に向かって投げつけたのです〉
〈間一髪でよけ、顔をわずかにかすった程度で助かった。当たっていたら命を失っていたかもしれません。許氏のすさまじい血相に加藤氏は真っ青になって震え上がり、許氏の言いなりの値段でイトマンが絵画を買うことになったと、のちに知りました〉
そして、以下のように導いている。
〈暴力団の世界は必ず裏に大物が控えていると思います。もし私が裏の人間なら、許氏はそんな暴挙に出ることができたのか? 私に万が一のことがあれば、大変なことになりますよ〉
実はこの一件は、事件の公判でも「主役の内紛」として明かされている。証拠として提出された伊藤のスケジュール帳には、90年8月23日に許と会談していたと記されており、
〈絵画の値段の件で激論〉とある。
許もまた、検察官調書で、
〈私も腹が立ち、伊藤に、お前に何が分かる。同じ絵があるねんやったら、ここへ持って来い〉
〈お前にとやかく言われる問題じゃない〉
そう供述していたのだった。
■「住銀が絵を描いた」
國重氏の著で“支柱”となっているのが、自ら手掛けた前述の告発文書「Letter」の存在である。
当時のイトマンの資金繰りの悪化、住友銀行への影響など、〈実態を具体的に記して、大蔵省に内通した〉とし、日経新聞が90年5月24日付朝刊で初めて「イトマン問題」を記事にして反響を呼んだ際には、
〈「Letter」も、大きかったのだろう〉
さらに、繰り返し文書を送りつけられた大蔵省の土田正顕銀行局長(当時)と、後日会食する機会があったと記し、
〈土田氏がイトマン事件のことを振り返って言った。
「あの文書というのは、本当に理路整然として、誰が書いたのかねえ。失礼ながらイトマンにあんな文章を書ける人物がいるとは思えない」〉
などと自画自賛が続くのだが、その“自信作”も伊藤からすれば、
〈まったく的外れ〉
とのことで、複数の明確な間違いがみられると言うのだ。
例えば90年5月14日、土田局長宛てに送った一通目。「固定化されて利益を生まない資産」としてイトマンの投資先が挙げられており、伊藤が支配していた雅叙園観光には「仕手株と不動産投資で約2000億円」とあるのだが、
〈これこそでたらめ。120億円です。それは後に裁判でもはっきりしています〉
私が伊藤から預かっていた雅叙園観光の株主総会資料にも「111億円」とあり、その資金で「再建のスタートを切った」と記されている。2000億円という数字は見当たらない。
さらに二通目の「Letter」である。地価高騰を抑えるべく大蔵省は90年3月、金融機関の不動産向け融資を制限する「総量規制」を通達。この政策について國重氏は、再度の投函にあたり、
〈規制の対象から商社が漏れていることを批判し、伊藤寿永光氏の実名を挙げて、そのやり口がいかにひどいかを訴えた〉
という。現に文書では、
〈全くの尻抜け規制と言わざるを得ません〉
そう批判し、具体例として伊藤が地上げした銀座一丁目の土地について、取得額は約300億円ながら470億円もの借入れがあると告発していたのだが、これも伊藤によれば、
〈取得費用は215億円、借入れたのは230億円。まったく違います〉
〈私がイトマンを知ったのは、(名古屋の)住友銀行の栄町支店長からの紹介です。「今後、銀行から不動産への融資に制限がかかるかもしれない。だから自行の商社を紹介します」と、住銀出身でもあるイトマンの加藤専務と初めて引き合わされました。平成元年8月です。(中略)ゴルフ場の案件でイトマンから融資を受け、その金額はそっくり全部、私の住銀の口座に入りました。住銀がすべて絵を描き、その通りにしたのです。イトマンイコール住銀だと信じていました〉
こうした経緯は伊藤の一審判決でも触れられており、
〈当初「イトマン・住銀事件」と呼ばれたものが、途中から「イトマン事件」となり、住銀が被害者とされるようになった。(中略)國重氏は、なぜそうなったのか真相を書くべきだ〉
と、指摘するのである。同著はまた、磯田会長と伊藤の関係についても相当な紙数を割いている。
〈伊藤寿永光が早くつかまってほしい。磯田会長はあまりに伊藤寿永光に取り込まれている〉
当時の巽外夫頭取がそう口にしたとの記述もあり、伊藤が行内人事にまで関与しているかのような描写は随所にみられるのだが、これに対しても本人は、
〈磯田会長の自宅には何度も招かれ、ご家族にも親しくして頂きました。然し、住友銀行のような大組織の人事を、私のような外部の人間が左右できる訳がない。常識です〉
■國重氏は「何かの縁」と
06年に収監されたのち、伊藤の消息はほとんど聞かれないままである。事件当時、代理人を務めていた人物に手紙の内容を説明した上で尋ねたところ、
「詳しくは明かせませんが、本人は元気で、國重氏の本は丹念に読んでいます。手紙の内容と同じことを私にも話しており、『とんでもない』と激怒していました」
すでに版元には抗議文を送付したといい、手紙はこう結ばれている。
〈私は住友銀行と取引をさせて頂き、育ててもらった。一方で私は、銀行からすれば300億円、500億円と預金をしていたお客様、取引先です。國重氏はお客をダシに、十分な根拠のない情報やメモで本を書き、金儲けですか? 私に裏付けも取らずに本を出す。こんなことが許されるのでしょうか? これが本物のバンカーのやることですか? 私にもプライドがあります。今後、法的な手続きをとるべく準備しています〉
“バブルの魔人”をすっかり眠りから呼び覚ましてしまった國重氏に質すと、
「この本の一番の情報源は、つい最近離婚した前妻です。実は彼女は当時、磯田会長の秘書をしており、私は既婚者だった。彼女と不倫関係になったことで、会長がいつどこで誰と会って何を話したか、そうした動向をつぶさに把握できたのです」
と、自らの“秘史”を告白しながら、
「『なぜ当事者に直接、事実確認をしないのか』と問われても、それは無理な話。本には70人ほどが登場します。実名の一人一人にお伺いを立てていたら、出版なんてできません」
そう主張するのだ。
「確かに、私は伊藤さんとは一度も会ったことがない。しかし本にもある通り、私は当時ある弁護士から伊藤さんについて『あなたみたいな人だ』と言われており、親近感のような気持ちを抱いていました。多くの住銀OBがこの本に激怒していると聞いていますが、幸いにも直(じか)に文句を言われたことはまだない。伊藤さんから抗議が来るというのは、何かの縁かもしれませんね」
25年目にして“続編”が展開されそうな気配である。(文中・一部敬称略)
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