荒川博氏逝去 王貞治の一本足を作り上げた異常な練習
「1人ではなかなか行けない境地を教えてもらった」。恩師の訃報に接した王貞治氏(76)のコメントだ。12月4日に心不全のため死去したのは、王氏の一本足打法の生みの親で、プロ野球巨人の元打撃コーチ、荒川博氏。享年86。王氏をかの境地へと導いたもの、それは荒川氏による、異常とも言える練習の数々であった。
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王氏をかの境地へと導いたものとは…
「しんどい思い出しかない。朝昼晩バットばかり振った。手、足から血が出た」
猛特訓の日々についてそう振り返った王氏が荒川氏に初めて会ったのは、中学2年の時。荒川氏は、後に「世界の王」となる少年の素質を一瞬で見抜き、自らの母校である早稲田実業高に入ることを勧めた。そんな2人が運命的に師弟関係となるのは1961年のオフだ。31歳で現役引退したばかりの荒川氏は、川上哲治監督に請われて巨人の打撃コーチに就任。伸び悩んだままプロ入り4年目を迎えようとしていた王選手を、榎本喜八のような名打者に育てて欲しい。それが川上監督から命じられたミッションだった。
主に猛特訓の舞台となったのは、当時、東京・新宿区にあった荒川氏の自宅2階の和室。そこで連日、畳が擦り切れるほどの素振りを繰り返したという逸話はよく知られているが、4年前、本誌(「週刊新潮」)の取材に荒川氏はこう語っていた。
〈畳は破れちゃうので、畳屋が武道用の丈夫な畳を入れたら、今度は足が切れちゃった。1〜2カ月に1回は畳を張り替え、あと自動車のタイヤみたいに、ローテーションさせましたよ〉
王選手より2年遅れて荒川氏の打撃指導を受けることになった巨人OBの黒江透修(ゆきのぶ)氏は、その練習の凄まじさについて次のように振り返る。
「1日に何百回、何千回とバットを振り続けていると、左手の親指あたりが擦り切れて血が滴り落ちてくる。それでも荒川さんは“大丈夫か? 指が1本くらい無くなっても、上手くなったほうがいい”と言い、練習を止めることはなかった」
練習に日本刀を用いたエピソードも有名だが、
「真剣は1キロ以上ありますし、集中が切れたり刀が絞れていなかったりすると、紙はスパッと切れず、ビリビリに破れてしまう。“真剣は人を殺すものだ。それくらいの覚悟でやれ”とよく仰っていた」(同)
こうした練習を繰り返し、王選手と共に作り上げた一本足打法が初めて披露されたのは62年7月1日。王選手は第2打席でいきなりホームランを放ち、このシーズン、初めてホームラン王と打点王に輝いた。そして、この年から13年連続でホームラン王を獲得、ついに通算868本の世界記録を達成したことはご承知の通りである。
巨人OBで野球評論家の広岡達朗氏が言う。
「実は荒川さんを巨人の打撃コーチにお誘いしたのは私なのですが、荒川さんが王を指導している時は、傍から見ていても自然と背筋がピーンと伸びるような緊張感が漂っていました」
晩年は少年野球の指導だけではなく、プロゴルファーのコーチも引き受けた。伝説の上にあぐらをかくことなく、最後まで現場に居続けた86年の人生だった。
ワイド特集「師走の忘れ物」より