1月に亡くなった竹田圭吾さん 妻への最後の手紙に書かれていたのは…
2016年1月10日にジャーナリスト竹田圭吾さんが亡くなってまもなく一周忌。
竹田さんの妻・裕子さんが二人の出会いから、竹田さんの知られざる家庭での素顔、治療と最後の日々を著書『一〇〇万回言っても、言い足りないけど ジャーナリスト竹田圭吾を見送って』で明かしている。
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夫を支え、再発しても「ポジティブ・シンキング」
2013年秋、皮膚や目に表れた黄疸に気づいて受診した内科で、膵臓がんが見つかった。裕子さんは告知を受けた際の竹田さんの様子をこう綴る。(以下、《 》内は本書より)
《パーティションで区切られただけの外来診察室で、内科医は少し考えながら言った。
「詳しい検査をしないとわからないですが、ステージⅢの可能性が高いです」
普段からあまり表情を変えることのない圭吾さんは、このときも顔色を変えなかった。
圭吾さんが自分から「ステージで言えばどのくらいか」と尋ねたのだ。》
その後、検査入院を経て、手術のために再度入院。9時間かかった手術は成功した。退院は予定より早く、体力も回復し仕事を再開。再発が多いと言われる術後半年を無事クリアし、経過は良好と思われたが、2014年8月、再発が見つかる。
《表情にも態度にも全く出ていなかったが、本人は相当なショックを受けているはず。
私は主治医に言った。
「本来なら、2週間くらい後にするはずだった検査を前倒ししてもらって、そのおかげで早く見つかってよかったです。早く見つかれば、その分早く治療できるってことですから」
「究極のポジティブ・シンキング!」
すかさず圭吾さんが、あきれたような大きい声で言ったのを覚えている。》
覚悟と準備の日々
それまでは、「2人の子どもも一緒に、家族全員揃っての方が楽しい」と、2人きりではめったに出かけることのなかった竹田夫妻。
《その状況が圭吾さんの病気で変わった。
お互い言葉にはしなかったけれど、「膵臓がん」と診断されたときから、少しずつ、本当に少しずつ、いろんな覚悟と心の準備をしてきたと思う。》
2人は、時間を見つけては、京都や高野山へ出かけた。
《高野山と比叡山で、私たちはどのくらいの回数、どのくらいの時間、手を合わせたのだろう。(中略)
圭吾さんがどんなことを念じていたかは、わからない。
薬師如来さまの前に座るたび、私がお願いしたことはひとつだった。
「圭吾さんの病気を治してくださいなんて贅沢なことは言いません。ただ少しでも長く、一緒にいられるようにしてください」》
しかし、しだいに体力が落ち、抗がん剤が効かなくなってしまう。
《「最期のときは家で迎えさせてあげたい」
私はそう決めていた。
冷静沈着(そう)な竹田圭吾さんは、ちょっと怖がりだ。
映画館で、大きな音や迫力いっぱいの画が突然出てきたりする場面では、人一倍大きな体を、人一倍飛び上がらせ、隣に座っている私を映画以上に驚かせた。》
亡くなる6日前までラジオ番組に出演した竹田さんは、病気の発覚からわずか2年3か月、51歳で亡くなった。
■手術前に竹田さんが書いていた手紙
それから4か月。仕事関係の書類を探していた裕子さんは、竹田さんが2013年11月手術の前夜に書いた手紙を偶然見つけた。そこには、裕子さんへの深い感謝が綴られていた。
《ありがとう、ありがとう…一〇〇万回言っても言い足りないけど。感謝しています。またいつかどこかで会おうね。》
裕子さんの目に、告知以来、竹田さんの前では決して見せなかった涙があふれた。
《手術の前日、これをどんな思いで書いたのかを思うと私はどうしたらよいのかわからなくなる。
やっぱり眠れないままひとりベッドの上にいたのだろう。暗い病室で朝を待つのはきっと苦しかったに違いない。
だめだ、何度読み返しても涙があふれてくる。》