「生き甲斐が病院通い」という皮肉 現役医師の問いかける根源的な問題

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里見氏は医師としての体験も交えながら「人間は、いつまで生きる(生かされる)権利があるのか」「人間は、いつまで生きる(生かされる)義務があるのか」という重く根源的なテーマを考察

■治療の先ではなく「治療」そのものが目的になる

 高額すぎると問題になっていた、がん治療薬のオプジーボの薬価が引き下げられることや、高齢者の医療費の自己負担を増やす方向で検討されていることなどが次々報じられている。
 健康な若い世代にとってみれば、歓迎すべきことだろうし、国家財政を考えた場合にも当然の方策なのだろう。また、ある程度年を重ねていても、こんな風に考える方もいるのではないだろうか。
「そもそもある程度年を取って、病気になったら、もうそれを受け容れるしかないのではないか。下手に頑張って治療なんかすると、副作用だの何だので、かえって苦しい思いをすることだってある。そんなことで家族やお医者さんをわずらわせても仕方ないだろう。もしもそうなったら、あとは自然に任せて、好きなことをしてこの世を去りたい」
「がんは放置せよ」という説に人気が集まる背景にもこういう考え方があるのだろう。そして、身も蓋もない言い方だが、高齢者が皆、このように考えるのであれば、医療費の削減にもつながるのは間違いない。
 それは結果として子孫の負担を減らすことにもなる。

 しかし、人間は感情の動物である。

 実際に病気になった高齢者にとって、治療が健康を取り戻す「手段」ではなくなり、それ自体が自己目的化して、「治療そのもの」が生き甲斐になることも珍しくない、と指摘するのは、医師の里見清一氏である。オプジーボに関して、いち早く問題提起をしたことでも知られる里見氏は、新著『医学の勝利が国家を滅ぼす』で、「生き甲斐は病院通いです」という章で、次のように論じている(以下、同章から抜粋・引用)。

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 高齢の病人にとって、精神の安定を得るべき「今までの日常(の続き)」は、自分の病気のことに他ならない。
 かつて私は、86歳の高齢でもなお化学療法に執着する肺癌患者Yさんのことを書いたことがある。
副作用をみかねて、さすがにもうやめようと、私は彼を説得して治療を中止した。
 その途端、副作用が抜けた分だけ身体は楽になったはずなのに、Yさんは腑抜けのようになってしまった。ご家族によると、「他にすることもないので、とにかく病気のことばかりをずっと考えている」ということで、私は頭を抱えてしまった。
 Yさんにとって、副作用や病状の変化(それは本人の自覚症状に出ない、血液検査の数値や画像での病巣サイズなどが主である)に一喜一憂することこそが「生き甲斐」であったのだ。

■「もう十分生きた」と思えるか

 アリゾナ癌センターのカーリー先生という方が、こういう話を書いている。
 テッドという89歳の老人が、肺癌疑いの陰影を指摘されたが、どこの病院でも「この年齢で今さら診断や治療をしても仕方がない」と取り合ってくれなかった。
 9カ月後、腫瘍がかなり大きくなり、テッドは医者に頼み込んで生検をしてもらい、肺癌の確定診断を受けた。しかしその医者も、まともな治療を行おうとしなかった。
「あなたはもう十分いい人生を送ったでしょう(You’ve lived a good life)」というのがその医者の言い分である。

■89歳で抗癌剤治療開始

 そのまた2カ月後、テッド爺さんはカーリー先生のところに辿り着いた。先生は診察や検査で彼の全身状態が良好であると診断し(テッドは「ガールフレンド」と来院していたそうだ)、娘に電話で聞いて「家でも元気で活動的である」ことを確認して、それでは、ということで、「通常の」抗癌剤治療を行った。
 腫瘍は縮小し、テッド爺さんは元気である。爺さんは90歳の誕生日を迎えた。そして彼に「チャンスを与えてくれた」カーリー先生に感謝している。
 もちろんカーリー先生はこれを「自分のやったことは正しかった」成功譚として書いているし、そうかも知れない。
 だがしかし、私はやはり彼に「You’ve lived a good life」と言った医者の側に立ってしまう。それで結局テッド爺さんは何を成し遂げたのか。ただ「抗癌剤治療を受け、89歳でもそれが可能であると示した」だけではないか。

■不遜な考えではあるが……

 もちろん、こういう考えを抱くこと自体が、不遜である。
 テッド爺さんが90歳の誕生日を迎えられたことが「無意味である」としたら、ではたとえばこの私が2016年に55歳になることに何の意味があるのだろう。
 そもそも人生に意味があるのか、また意味が必要なのか。少なくとも、私が決めるべきことではないのは確かである。
 しかしそれでもなお、私は、釈然としない。どうみても、テッド爺さんの「治療」は、治療そのものが目的としか思えない。そんな、合計11カ月もの間あちこち病院を渡り歩き、「治療をしてくれ」とかなんとか訴える暇があったら、残された時間、他にもっとやることはなかったのか。
 どのみち爺さんはこの後1年持たずに肺癌で死ぬのである。
 だがしかし、爺さんにとって、「やること」は治療以外になかったのである。そして私はそれを笑えない。Yさんもそうだった。治療が、もしくは病気が、残された彼の人生そのものだったのである。

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 こうした問題を突き詰めて考えていくと、人は何のために生きるのか、という問いにも直面することになっていく。
医学の勝利が国家を滅ぼす』で、里見氏は医師としての体験も交えながら「人間は、いつまで生きる(生かされる)権利があるのか」「人間はいつまで生きる(生かされる)義務があるのか」という重く根源的なテーマを考察している。

デイリー新潮編集部

2016年11月25日掲載

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