清原のシャブ共犯者・覚醒剤密売人が明かす内幕 「清原さん」からもらった“離婚記念のバット”
球界のスーパースターだった清原和博(49)が覚醒剤に溺れ、有罪判決を受けてから5カ月。ここに至って、覚醒剤密売人の小林和之氏(45)が、告白本『密売』を出版した。そして、本誌(「週刊新潮」)の200分にわたるロング・インタビューに応じ、事件の内幕を明かしたのだ。
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東京地裁で、懲役3年執行猶予5年の判決を言い渡されてから、もう4カ月近くが経ちました。私は現在、群馬県内の居酒屋で板前として働き、更生に努めています。
なぜ、『密売』を書いたかと言えば、すべてをあからさまにして過去と完全に決別したかったことと、世間を騒がせたことへの反省からです。そして、私のせいで、球界のスーパースターとしての地位を失うことになってしまった清原さんにお詫びの気持ちを示したかった。
■憧れのヒーロー
私が、初めて清原さんと顔を合わせたのは、2014年の8月のこと。その日の夕方、東京・六本木の「ザ・リッツ・カールトン東京」のツインルームにひとりで待っているとチャイムが鳴った。ドアを開けると、Dという男に伴われ、そこには私にとって憧れのヒーローが立っていました。
清原さんは、「初めまして」と両手を差し出し、握手を求めてきた。
私は、Dから言われ、その場にシャブの1グラムパケを3つか4つ、それとガラスパイプを用意していました。
しばらく、3人で雑談をしてから、私がそれらを取り出すと、清原さんは20万円の入った封筒をDに預けた。私はガラスパイプにシャブの結晶を落とし、清原さんに渡しました。清原さんはおもむろにライターでガラスパイプを炙り、シャブの煙を深く吸い込み始めた。以前から清原ファンだった私は、その姿に少なからずショックを受けましたが、他人には明かせない秘密を共有できたことに不思議な感動も覚えました。
清原さんは口が半開きになり、目の焦点は定まらず、茫然とした状態になっていった。
清原さんとの関係は最初の出会いから、シャブを介してのものだったのです。
なぜ、私が清原さんにシャブを売り渡すようになったのか。それを説明するには、私とDとの付き合いから話さなければなりません。
清原にシャブを売り渡すようなったきっかけは……
■「もう、誰もおらんねん」
私は、逮捕監禁、覚醒剤所持などの罪で、栃木にある黒羽刑務所に02年から服役していました。そこで知り合ったのがDでした。Dは、コカイン所持、脱税などで4年半の懲役を打たれ、私より後に入所してきた。
刑務所というところは虚勢を張りたがる者が多く、Dも事あるごとに「清原の友だちなんだ」「清原のコカインを預かって、身代わりにパクられたこともある」と吹聴していた。やはり、大ぼら吹きの1人にしか見られていませんでした。
私は5年の刑期を終えて出所し、それから2年ほど遅れて、Dも塀の外に出てきた。同い年ということもあって、シャバでもDと付き合い出し、飲みに行ったり、シャブを吸ったりもする関係になっていきました。
14年の春、清原さんのクスリ疑惑がメディアを賑わし始めた。
私は、Dの話に半信半疑でしたが、「清原さん、大変なんだろ。電話して励ましてやれよ」と勧めました。でも、Dは「銀座のママを取り合って揉めてるんだよ」と、渋っていた。後でわかったのですが、実はそれまでの10年間、Dは清原さんと音信不通の状態でした。
ところが、ある日、清原さんがDに、「久しぶり。もう、誰もおらんねん」と電話をかけてきたというのです。
クスリ疑惑が報じられて、妻子も家を出てしまい、きっと頼れる人がいなかったからに違いありません。
そして、Dは私に、「キヨから電話が来てさ、会わせてやるからシャブを持って来てよ」「どうせ、どこからもシャブを調達できず、俺に電話してきたんだろうからさ」と言ってきて、「ザ・リッツ・カールトン東京」での対面となったわけです。
■お決まりの売買パターン
それ以降、清原さんと会うときには、私がネタ元から1グラム入りパケを4万円で4つ仕入れ、同じ金額でDに渡しました。Dは自分用に半分くらいを抜いたうえで、清原さんに20万円で売りつけていた。おまけに、群馬から上京する私の交通費として清原さんから受け取っていた4万円もDは懐に入れていました。
いつも赤字だからDに文句を言うのですが、言い逃れをするばかり。
業を煮やした私は清原さんに電話をし、Dがシャブ代をぼったくっていることや詐欺まがいの競馬予想でボロ儲けしていることなどを言い付けました。でも、清原さんは「大丈夫です。アイツの“取扱い説明書”を持っていますから」と応え、2人で大笑いしました。
それをきっかけに、清原さんと直接取引をするようになった。「ザ・リッツ・カールトン東京」から1カ月後くらいのことです。
清原さんとのシャブの受け渡しは、東北自動車道の佐野藤岡インターチェンジで行うことが多かった。
清原さんは「ありますか?」と電話をしてきてから、ベンツを駆って、東京からやって来ます。そして、料金所を出たところで路肩にベンツを停め、シャブを受け取ったら豪快にUターンをして戻っていくというのがお決まりのパターン。
度々、すぐに味見をしたくなった清原さんとラブホテルにも行きました。ところが、部屋で清原さんがシャブを吸っていると、ラブホテルのスタッフが「サインしてください」と色紙を持ってドアをノックしてくることもあったのです。
別の部屋に泊まっていた私は翌朝にその話を聞きましたが、清原さんからすれば、遂に警察官か麻薬取締官が来たかと肝を冷やしたはずです。
■離婚記念のバット
外での受け渡しだけでなく、私の群馬の自宅にも4回くらい来ています。
私がファンであることの証に、集めていた記事の切り抜きとかポスターを見てもらった。それから、2人でシャブを始めると、清原さんは「こうやって、東京から離れて吸っているときが一番リラックスできます」と笑顔を見せていました。
清原さんが離婚を発表した14年9月22日の翌日にも、「これから、群馬に行こうと思うのですが、大丈夫でしょうか」と電話をかけてきて、私の自宅に来ました。
そして、玄関先に現れた清原さんは、「離婚記念のバットです。もらってください」とサイン入りのバットを差し出してきた。私は自宅に招き入れ、ふたりでシャブを吸いました。
バットはいまでも、私の宝物です。
そのころの清原さんはシャブにどっぷり嵌っていたと言われても仕方がない状態でした。
その年の12月2日、“大魔神”こと佐々木主浩さんの野球殿堂入りパーティが東京の帝国ホテルで開かれた。清原さんが、久しぶりに公の場に姿を現すとあって、メディアからも注目されていました。
実は、パーティの3時間前まで、私の自宅で“ヨレヨレ”でした。さすがに、「行くのはやめた方がいいですよ」と忠告したのですが、「大丈夫っすよ」と気にする素振りも見せなかった。
清原さんはこのようにして、月に1回のペースで群馬までシャブを買いに来ていたのです。
特集「『清原和博』に300回分を売った『覚醒剤密売人』ロング・インタビュー200分」より
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