大河ドラマ「真田丸」の聖地巡礼に、ちょっと待った! 本当にあった場所はここ

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 いよいよ大坂の陣に近づいてきたNHK大河ドラマ「真田丸」。大坂冬の陣で、豊臣方が押し寄せる徳川方の前田、井伊、越前勢を絶え間なく発射される鉄砲の威力で撃退し、大勝利を収めたといわれる。ドラマのタイトルにもなっている真田信繁(幸村)の要塞が今の大阪市内にあるのは間違いないが、憧れの聖地に足を運んでみたいと思う大河ドラマのファンはすこし待ってほしい。かつての激戦地「真田丸」がどこにあったのかは、実はまだはっきりしていないのだ。

豊臣大坂城の弱点

 まず確実なことを押さえておこう。それは「真田丸」が大坂城の中では防御上の弱点をなしていた南方面に位置していたことだ。天険の要害・大坂城も、このあたりは、緩やかな斜面の他には特に自然の要害もなく、水も通らぬ空堀をめぐらすだけで、戦いが始まる前から、徳川方の猛攻が一番予想された。

 大坂城に入った真田信繁(幸村)は大坂城のこの弱点を補強するために、八丁目口の東にして、惣構えの東南端にあたる位置に、長さ100間からなる馬出郭の形状をもった出丸を設けたといわれる。では、真田丸がどのようなものだったか、最新の考古学的資料と文献を用いて分析している『豊臣大坂城』では、現在それがあったと知られている場所だけではなく、その他の有力な説についても記述がある。では、その秘密を探ってみよう。

「200メートル四方の地」

 よく候補地として名前が挙がるのが、真田山三光神社。現在のJR玉造駅の西側周辺である。ここには、「真田の抜け穴」も残っていることでも有名である。しかし、古図を見ても土地の高低を考えても、ここに真田丸があったとは考えられないというのが、識者のおおよその見解である。

 最も有力視されているのが、400~300メートル西方の心眼寺の西側、明星中学・高校付近ではないかという説である。豊臣秀吉研究者・櫻井成廣氏は、「真田丸は円珠庵を南西角とした約200メートル四方の地だった」と場所を特定するが、これは「百間四方に堀柵を構え」られていたという江戸時代の記録にも面積からも一致する。

絶好の戦術的要衝

 現地を訪ねると、まず、円珠庵のある交差点辺りが一番標高が高く、大坂城惣構えを睥睨できることがわかる。戦上手の信繁(幸村)ならば、当然、この高地を取り込んで真田丸を構築しただろう。もし、ここを徳川方が陣取れば、戦略的に不利になることは明らかだからだ。先の櫻井説にしたがえば、円珠庵は堀の内側で、そこから200メートル東まで、大阪明星学園の敷地を含んだ北側が真田丸があった場所だと推定される。真田丸の大きさが約200メートル四方なら、ここらへんが真田丸があった場所である。ここなら、大手道である天王寺口の東側から横矢(側面からの攻撃)が掛けることができるという絶好の戦術的要衝であるという点も見逃せない。

「真田の抜け穴」は「藤堂の攻め穴」?

 これまでの話で真田丸が三光神社にあったと思っていた人はがっかりするかもしれないが、それでは「真田の抜け穴」と言い伝わるものはなにか?

 三光神社が真田丸に該当しない以上、これが豊臣方の逃げ口であるはずはないが、逆に、徳川方が掘った坑道である可能性は残る。
 実際、南惣構え堀には水がないので、徳川方は12月13日坑道を掘り始めた。櫓を崩したり、城中へ侵入するためである。文献によると、徳川方の藤堂高虎は城内に向けて坑道を掘ったようだ。この穴は檜材を使用した、幅2間半(5メートル)、高さ1間(2メートル)で、両側に掛け灯台を点し、藤堂の陣の西方から幅1間ばかり城内へ掘り抜いたという。三光神社の「真田の抜け穴」は案外、「藤堂の攻め穴」なのかもしれない。

地図:(c) OpenStreetMap contributors
http://www.openstreetmap.org/relation/358674#map=17/34.67295/135.52862

デイリー新潮編集部

2016年10月28日掲載

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