間寛平、アースマラソン中に発見された「前立腺がん」との戦いを明かす がんに打ち克った4人の著名人(2)

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「今、僕が生きていられるのは、奇跡、奇跡、奇跡の連続のお陰。ほんま紙一重やったと思います」

 前立腺がんを患ったタレントの間寛平さん(67)はこう振り返る。がんが発見された10年1月、寛平さんは夢にみた「アースマラソン」の真っ只中。日本が位置する北緯35度の、ほぼ同一線上を、太平洋、北米、大西洋、欧州、アジアの順に辿り、世界一周するという壮大なスケールの旅である。

 前立腺がんのマーカーであるPSA値は、通常、4ng/ml以下が基準値だが、寛平さんは、02年に一度高いと指摘されていた。そのため、旅行中も絶えずメディカルチェックの項目に入れて推移を監視した。

「出発前の検査では大丈夫だったんです。けど、アメリカに着いて、ロス、シカゴ、ニューヨークと進むごとにPSA値が上がる。ニューヨークで、触診の名人という日本人の先生に診てもらったけど、その時は大丈夫だと言われました」

 後に分かることだが、がんは前立腺の奥、見つけにくい場所にあったのだ。

 大阪をスタートして1年後、トルコのイスタンブールでチェックを受けた時、ついにPSA値が40近い高値に上昇。X線で検査を受けたところ、がんを告げられた。幸い初期のもので、転移はなかった。ホルモン治療をしながら走り続け、翌年に帰国後、手術を受けるという予定が組まれたが、さすがに落ち込んだ。

「夕方、ボスポラス海峡を飛ぶたくさんの海鳥を眺めていると、良くないことばかり考えるんですよ。ひょっとしたら帰国前にどこかで死んでしまうんと違うか、とか。あと10年生きられるんやったら、海鳥になってもええかな、とかね」

■「ビョウキ デテイケ!」

 そんな彼を励ましたのは、明るい光代夫人だった。

「あんたは運が強いから大丈夫や。絶対大丈夫や」

 呪文のようにずっとそう言い続けてくれたという。

 さらに日本から朗報が届く。太平洋横断に使った船のメンテナンスのために、神奈川県の油壺に滞在中の仲間から、サンフランシスコに名医がいるという情報が寄せられた。

 急遽、トルクメニスタンでマラソンを中断。米国に引き返し、4月下旬から放射線治療を1カ月半にわたって受けた。外部からの放射線照射を25回行い、さらに小さな放射線源を前立腺に挿入してがん細胞を叩く最新治療を加えた。

 数日は吐き気などに苦しむが、そこに天使のような存在が現われた。寛平さんの「脳みそバーン」のギャグを見て、ファンになった日系アメリカ人少女だ。自宅のあるアリゾナから飛行機で入院先の病室まで駆け付けてくれて、

「ビョウキ ビョウキ デテイケ デテイケ…ブレーンバーン ノウミソバーン!」

 と、寛平さんのギャグを繰り出し、踊ってみせた。彼は涙が止まらなかったという。主治医からも、順調に回復し、経過は良好だと嬉しい報告を受けた。

「ただ、がん細胞をボッコボコにやっつけているだけで、復活するかもしれないから、定期的に血液検査は受けなさい、と先生からは言われました」

 6月18日、トルクメニスタンに戻り、マラソンを再開。翌11年1月、世界一周の完走を果たし、無事、大阪に舞い戻った。

 治療後3年経って、放射線で叩いた組織が尿と一緒に流れ出てくるので、頻尿と血尿に半年以上悩まされたが、今は体調も絶好調で、10月30日の大阪マラソンに備え、調整中だ。寛平さんの夢を実現させたいと願う多くの人々の応援があったからこそ、不幸の中にも幸運を呼びこめたにちがいない。

「特別読物 がんに打ち克った4人の著名人 Part4――西所正道(ノンフィクション・ライター)」より

間寛平
1949年生まれ。若手芸人育成のための“劇団「間座」”を結成。旗揚げ公演は12月24日・25日、大阪・HEP HALLで開催。

西所正道(にしどころ・まさみち)
1961年奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』、近著に、『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』がある。

週刊新潮 2016年10月13日神無月増大号掲載

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