反乱と脱税で冷や飯の晩年 総理の椅子は目前だった「加藤紘一」陽の当たらぬ15年

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 去る9月9日、加藤紘一元自民党幹事長が鬼籍に入った。享年77。総理の椅子が目前だった宏池会のプリンスは2000年、当時の政権へのクーデターで失脚する。更に豪腕秘書の脱税、関連捜査が波及するなかでの議員辞職。陽の当たらぬ冷や飯の15年を振り返る。

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加藤紘一元自民党幹事長

 シェイクスピア四大悲劇のひとつ『マクベス』は、3人の魔女の予言に導かれるように、王位簒奪の野心を実行へと移す男の物語である。冒頭、魔女が口を揃えてこう言う。

〈きれいは穢(きた)ない、穢ないはきれい。さあ、飛んで行こう、霧のなか、汚(よご)れた空をかいくぐり〉(福田恆存訳/新潮文庫)

 派閥領袖を務める加藤紘一氏のためにせっせと集金し、穢ないときれいの区別を忘れて司直の手に落ちた秘書の手の穢(けが)れについては後述するとして、元幹事長の運命の転回ぶりをざっとおさらいしておこう。

 山形県鶴岡市の汚れなき空のもと、外務省でのキャリアに別れを告げた加藤氏は、1972年12月の総選挙に出馬して初当選。2回生で大平内閣の官房副長官に抜擢されたのを皮切りに、84年に防衛庁長官で初入閣。91年、小泉純一郎、山崎拓の両氏と「YKK」を結成する一方で、同年11月には官房長官に就任。宏池会のプリンスとして権力の階段を上って行く。

 王位奪取に手をかけた99年9月、総裁選に出馬するも小渕恵三候補にダブルスコアで大敗。当時の担当記者によると、

「小渕には“一度首相をやれたら、しかる後に加藤へ禅譲”というプランがあったのに、加藤は出馬に拘った。だから小渕は加藤を冷遇したのです」

 明けて2000年4月。小渕首相が倒れ、青木幹雄官房長官ら政権与党の幹部5人が密室で、森喜朗氏を“首班指名”。森政権は発足後2カ月で衆院解散へ打って出るも惨敗。それ以降、俗に言う「加藤の乱」は蠢(うごめ)き始める。

 盟友のひとり、山崎元自民党幹事長に聞くと、

「7月に出した『YKK秘録』に全部書いたのでそれを見てください」

 と仰るので、そこから引くと、「10月30日、ホテルニューオータニのスイートルームでの秘密会談」として、大要こんな記述がある。

〈私と加藤は民主党の仙谷由人と会って、「11月半ば以降の本会議でクーデターを決行する。同調してくれないか」と内閣不信任案の提出を持ちかけた。慌てた仙谷は菅直人と枝野幸男を呼び、5人で話し合った〉

 当時、衆院定数480のうち、与党は272。加藤と山崎の両派を合わせれば64で、その多くが寝返れば不信任案は可決する。

「野党というのはチャンスがあれば不信任案を出そうとするものですから……」

 と話すのは、当の菅直人元首相。

「そりゃ(事前に打診は)色々ありましたよ、もちろん。加藤さんとは『自社さ』時代から一緒にやってきたので信頼関係がありました。乱のときも、“自分たちが賛同することで森政権を倒そう”と考えていた。加藤さんはそのことに自信を持っていて、“民主党を含め、野党は大丈夫か”と訊かれたのを覚えています。私も不信任案が通ったら次の政権はどうなるか、色んな頭の体操はしましたよ」

 そして「乱」が水面下から浮上するのが11月9日、「山里会」でのことである。読売新聞の渡辺恒雄会長、政治評論家の早坂茂三、三宅久之、屋山太郎の各氏らが、ホテルオークラの「山里」で開いた会合に招かれた加藤氏は、

「森さんに内閣改造はさせません」

 とぶち上げ、目の前に置いた携帯電話を指でコンコンと叩くと、こう宣(のたも)うた。

「これで菅さんに電話すれば、15分で話がつく」

 明日にでも不信任案を出させ、自分たちの造反によってこれを可決させる用意ありと強調したのだ。結果、

「会の中身は常にオフレコという決まりだったのが漏れ、メディアが報じ、『加藤の乱』が公になりました。明くる朝、やってきた記者らに問われた小泉は、“え、加藤さん、もう言っちゃったの?”と驚いていた。つまり、YKKの間ではすでに話が煮詰まっていたということでしょう」(前出・担当記者)

 別の社のベテラン記者が後を受け、

「小泉は、“世のなか何が起こるかわからんよ”とペラペラ喋っていましたね。最初から加藤と行動を共にするのではなく、森派の会長として森を守り、山崎・加藤の造反を潰す腹だった。もっと言えば、『次は自分』という狙いもあったはず。結局、加藤は小泉に裏切られたということなんです」

 当初から加藤氏は、

「国民を交えた長いドラマが始まります」

 と高揚感をもって訴えたが、11月20日、「本会議場へクルマで向かうも出席さえできず引き返す」という悲劇が待ち構えていた。いや、当人はそれを演じているはずが、世間は三文芝居と呼び、大根役者と口を極めて非難したのである。

「加藤さんは非常に正義感の強い政治家でした。だけどああいう大義のないことを、与党である自分たちでやろうとしたらダメですよ。あのとき僕は本会議場で待ち構え、加藤さんが来たら即除名処分を下す段取りをしていました」

 と、これは切り崩しに奔走した当時の幹事長・野中広務氏の打ち明け話である。

「僕は古賀(誠)君と一緒に何回、“あの秘書のクビを切れ”と言ったかわからへんな。随分、加藤さんの足を引っ張ってしまった」

「あの秘書」こそ、他ならぬ佐藤三郎・元加藤事務所代表(75)である。

■“トラブルになるぞ”

 北朝鮮からの物資を扱う倉庫業を横浜で営む佐藤元代表が加藤氏に近づくのは1983年ごろ。将来の首相と見込んでのアプローチだった。

「カネ集めが全くできず、『貧乏事務所のボス』と揶揄されてきた加藤は佐藤を頼り、94年に彼は事務所トップに就任。それからというもの、政治資金はすべて佐藤が管理することになり、集金にドライブがかかって右肩あがりに増えて行ったのです」(先のベテラン記者)

 事実、佐藤元代表は、地元・山形で豪腕の異名を恣(ほしいまま)にしていた。さる建設業者はこう述懐する。

「もともと加藤代議士は、“地元にカネを求めず、利益誘導もせず”のスタンスでしたが、佐藤さんはその真逆でした。実際にその力は絶大で、彼を通せば公共事業受注の優先順位をあげてもらえるのです。ただし、その報酬として必ず、1件50万円を下らない額を求められました」

 そんな佐藤元代表の精励恪勤ぶりをことに評価していたのは、加藤氏の妻・愛子夫人だった。永田町関係者のひとりは、

「ゴルフのうまい佐藤が愛子さんの指南役を買って出たり、忙しい加藤に代わって子供たちをディズニーランドへ連れて行ったり。更に、6年半にも亘って、自分の会社の監査役に愛子さんを就け、報酬を支払うなど金銭面でもぬかりなくサポート。あのころ佐藤は鎌倉に住んでいて、愛子さんは折に触れ、“鎌倉に足を向けて寝られない”なんて口にしていました」

 と明かすが、穢れた手への捜査網は徐々に狭まりつつあった。

「派内の若手にカネを渡すのも佐藤の役割でした。地元でのリベートの話もこっちへ聞こえてきていたし、“なんだあの訳のわからん奴は。将来、トラブルになるぞ”と党内でも評判が悪かったですよ」(同)

 はたして、2002年3月、東京地検特捜部が所得税法違反(脱税)容疑で佐藤元代表を逮捕。社会部デスクの解説によれば、

「公共事業の『口利き料』や芸能プロ『ライジングプロダクション』側に警察の捜査情報を流した際の『見返り金』など4億円強の所得を申告せず、約1億7000万円を脱税したと認定されました」

 それに加え、

「この捜査の過程で、加藤が政治資金9000万円余を東京・南青山の自宅マンションの家賃や生活費などに流用していたことも判明。具体的には、自身の資金管理団体から自分名義の口座に毎月160万円の送金を受けていました。なかには、加藤本人のクレジットカードの利用代金や損害保険の掛け金の引き落としまで。それで加藤は特捜部から、政治資金規正法違反の疑いで事情聴取を受けたのです」

 結局、加藤氏は02年4月、議員辞職に追い込まれたのである。

■ミャンマーで脳卒中

 暫しの蟄居に臥薪嘗胆のお詫び行脚を経て、03年の衆院選で当選し、捲土重来を果たした……かに見えた。

「旧加藤派の事務所へ顔を出しても、“え、なんで戻ってきたの?”という反応だった。しかも、歴代会長の写真が並ぶなか、加藤のものだけ剥がされていた。『過去の人』扱いされ、いたく傷ついていましたね」(先の永田町関係者)

 すでに首相の座にあった小泉氏は盟友の返り咲きに、

「また頼むよ」

 と声をかけたが、その一方で、“変化”について周囲にこう語っている。

「加藤さん、変わっちゃったね。“人間の幸福についてこれからは議論したい”と言っていたから。“これまで東京基準でやってきたけど、山形のおじいちゃん・おばあちゃんと話すなかで、幸せって1つじゃないと思った。中央の論理だけで決めていいのか”とも主張していて、驚いたよ」

 あまりにも日本の現実から遊離した政策を唱えてきたことへの反省と“改宗”宣言。だが、盟友が廟堂に立って以降、時代は大きく事変わり、加藤氏の出番が来ることはなかった。

 12年の総選挙直前に脳卒中に襲われる。ふらつく体躯と回らぬ呂律を街頭で晒したこともあって落選し、翌年に引退を表明した。

後継の三女・加藤鮎子衆院議員

「14年に古賀さんとミャンマーへ行った際にも脳卒中で倒れ、何とか日本に戻ってきて療養生活に入ったのです。その後は、リハビリのために順天堂医院へ通院。看病については、去年TBSを退社した二女がメインで担い、三女の鮎子代議士も亡くなる2日前に見舞っている。ただ、愛子夫人はほとんど姿を見せなかったと言います」(別の永田町関係者)

 乱前夜の密議に参加していた仙谷元官房長官が、

「あそこで不信任案に賛成するという行動を起こせば、日本の歴史は変わっていたし、加藤さんの言う『保守リベラル』、真っ当な保守の世界を再生できたかもしれないな。それが僕の偽らざる心境ですよね」

 と言えば、先の野中氏は、

「惜しい政治家。あのままうまく行っていたら総理になっていましたよ。総理にしてもおかしくない人物でした。小渕さんのときに間違ってしまったんだね」

 と評価する。やはり、小渕氏からの禅譲の可能性が高かったと匂わせるのだ。

 造反を貫くべきだったか、待つべきだったか。国民との交わりを欠いた15年の孤独なドラマが終焉を迎えてもなお、解けぬ問題である。

「特集 反乱と脱税で冷や飯の晩年 総理の椅子は目前だった『加藤紘一』陽の当たらぬ15年」より

週刊新潮 2016年9月22日菊咲月増大号掲載

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