非行少年→DCブランド店員→大学院進学→テキヤ→作家 異色の犯罪社会学者の半生

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『ヤクザになる理由』著者である廣末登氏は、異色の犯罪社会学者

■ヤクザの本音を引き出す

「東京の麻布に生まれとったら、ヤクザにはならへんかったろうな」
「中学の先輩でヤクザになった数は、両手の指では数えられんな。おれは、指の数少ないさかい、なおさらや」
 元暴力団員たちの生々しい証言が数多く収録されていることが話題の新書『ヤクザになる理由』。彼らの本音を引き出したのが、著者の犯罪社会学者、廣末登氏だ。
 実は廣末氏自身、かなりグレていた時期があり、それが彼らから話を聞くのに奏功したという面もあるという。異色の犯罪社会学者、廣末氏の半生を見てみよう。

■小学校に入学できず

 廣末氏は1970年に福岡市で生まれた。家庭は経済的には裕福ではなかったが、父親が大学の助手か講師をしていた関係で、本だけは沢山あったから活字に親しむ機会はあったという。
 ただ、父親の教育方針はかなり変わったものだった。
「教員や級友から、負の人格投影を受けるから(悪い影響を受けるから)」という理由で、廣末氏は小学校に入学させてもらえなかったのだ。そのため大体、日中は図書館か大学の中で放置されていた。
地元の教育委員会の強い働きかけで、やっと登校できるようになったのは3年生になる年齢からだ。
 途中からの入学ということもあって、当初はイジメなどにも遭ったが、喧嘩で負けて帰ると父親は家に入れてくれない。廣末氏は「喧嘩上等の日々」を送ることになった。

「当時の私は『野生のエルザ』と同じでした。人との接し方を学んでいないのですから。さらに悪いことに、私は少々吃音の傾向がありましたので、口喧嘩がうまくありませんでした。結果、手を出す方が簡単、と考えていたのです」(廣末氏。以下同)

■中学校でも喧嘩三昧

 中学校に入学する頃には成績も上位に入るようになり、平穏な学生生活を送っていたのだが、父親の仕事の関係で転校したことをきっかけに喧嘩三昧の日々となってしまう。

「転校先のM中は、九州最大の商業地区である天神が校区内にありましたから、不良の割合も多い学校でした。更生するには時間がかかりますが、不良になるのは急降下です。いや実に早いものでした。
 毎日やることは、万引き、タバコ、タダゲーム、カツアゲ、ナンパ……そんなところでした。薬物をやっていなかったのは幸いです」

 街中で補導員から「君、どこの中学なの。今時分何してんの」などと声をかけられると、「なんかきしゃん、関係なかろーが」などと凄む。バスの中でもくわえタバコという有様。
 完全にグレてしまったのである。

 結果、家裁送致は2回、交通裁判所にも1回送らることとなった廣末氏。
 福岡中央署の警部からは「今度は年少(少年院)ばい」と言われたという。
 ところが、この直後に転機となる出来事が訪れる。
 補導された警察署で、ある光景を目にしたのだ。

「リーゼント決めた兄ちゃんが、手錠、腰縄で警官に連行されていたのですが、彼は泣いていました。連行している警官は決して優しい態度ではありませんでした。この光景を、偶然見たことで、私は非行から足を洗い、軟派に転向したのです」

■中卒は天然記念物

 もっとも、警察に厄介になるようなことをやめたというだけであって、真面目になったわけではない。

「高校も行かず、バイトでもらえるカネで、深夜徘徊したりディスコに行ったりと自堕落な生活をしていました。ある日、自分の恰好がダサイことに気が付きました。しかし当時はやっていたDCブランドの服は、上下で10万円はします。時給450円の身では、手が出ません。どうしようかと知恵を絞りました。その結果、DCブランドの店員になればいいことに気が付きました。
 早速、年齢をごまかして、天神ビブレ(博多の商業ビル)のDCブランド店に潜り込みました。たくさんの服を買い、ディスコに行く。またもや自堕落な日々でした。
 たまに暴走族の先輩から誘われて、悪いこともしていました。この頃までは、街中の喫茶店で殴り合いの喧嘩をして、周りの人から白い目で見られるといったことがありました」

 この頃、そのDCブランドのオーナー兼デザイナーと知り合ったことをきっかけに、デザイナーを目指すようになり、東京で働くようになる。しかし、その職場でもイジメが待っていた。

「『中卒は天然記念物』と呼ばれ、叩かれたりもしました。忍耐力つきましたねえ。何度、テープカッターを振り上げたかわかりません」

 そこで、22歳の時に社長に相談して、高校進学のために帰郷。店員をしながら通信高校に通うようになる。
 ようやく北九州市立大学に入学したのは27歳の時だった。そして32歳で大学院に進学。無事博士課程を修了するが……。

「大体、大学院博士課程修了者には仕事がありません。偶然目にした選挙ポスターからピンと来て、ある候補者の選挙事務所で働き、その方が当選したので、秘書にしてもらいました」

 その事務所に3年半ほど務めたものの、体調を崩したことで退職し、また福岡に帰ってくる。

■テキヤに就職

「大学院時代から政策秘書時代にかけて書いた論文や質問主意書、委員会質問、議員活動報告や政党機関紙などの分量をA4の紙にすると、ワンルームの半分が埋まるのではないでしょうか。それほど書いていた私が、体調を崩してからというもの、手紙一本書けなくなりました。そのようなどん底の私に、書くことを勧めてくれたのが、大学院の指導教授でした。そこでヤケクソで書いた小説が、偶然、あるコンテストのノベル部門で特別賞を貰いました。もう一遍書いてみるかなあとか考えていると、元ヤクザの人たちから、暮らしにくい社会の不満を耳にするようになりました。
 そうか、それならばもう一遍、ヤクザの研究をしてみようと考えました。それで、その年の終わり、求人誌で見つけたバイト、テキヤの一座に加わりました」

 その後も紆余曲折ありながら、廣末氏は論文を書き、出版できるようになった。結果として、元不良だった経験は、元暴力団員の人たちと言葉が通じやすいという点では役だったという。その成果のひとつが『ヤクザになる理由』だ。

「若いころにヤンチャしてきたことが、いいことかどうか分かりません。ただ、今になって言えることは、負の経験もまた貴重な人生経験であるということです。そして、こうした負の経験のお陰で、たとえば、私には堪え性が涵養されました。堪え性は、社会に出て役に立ったと思います。
 それ以外にヤンチャの効用は何があったのかと考えると、人間関係と対人スキルだろうか、とは思います。ある不良の後輩はこんなことを言っていました。
『下手に出た方が得をするとです。相手が油断して本性出しやすいでしょう。そこで偉そうにするヤツとは、付き合わんやったらいいけんですね。これ、ある先輩に教えてもらったとですよ』
 こうしたスキルを不良は先輩や同輩の鉄拳で学びますから、身体に教え込まれているという面はあるのでしょう」

 現在、廣末氏は地元で葬儀社の夜勤の仕事をする傍ら、研究を続けており、取材や執筆活動、講演にも精を出すなど、多忙な日々を送っている。

デイリー新潮編集部

2016年9月28日掲載

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