アベノミクスの限界が見えて 日本は「脱成長主義」の道を選ぶべきだ――佐伯啓思(京大名誉教授)

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 アベノミクスにはバラ色の未来が待ち受けている――。株高が収まった今、そう思っている人は決して多くないだろう。かといって、ではどうすればいいのか道筋は見えてこない。日本の指針はどこにあるのか。京大名誉教授の佐伯啓思氏が、「成長主義」に警鐘を鳴らす。

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安倍首相

〈GDP算出めぐり論争〉

 新聞報道(8月26日付産経新聞)によれば、日銀と内閣府が戦っているそうです。なんでも、日銀が国内総生産(GDP)を従来とは異なる方法で試算したところ、過去10年の実質成長率が、これまでの内閣府の公表値0・6%から1・2%に上がったのだとか。

 0・6%と1・2%。2倍とはいえ微々たる差にも思えますが、とにかく経済成長率を少しでも高めたい、高成長こそ「善」であるとの思想が透けて見えます。

 成長率は高ければ高いほどいい。多くの人がそう信じ込んでいるように感じられます。実際、先の参院選に際しても、自民党はアベノミクスのエンジンを最大限にふかすと謳(うた)い、野党もアベノミクスを批判こそすれ、民進党が「分配と成長」と訴えたように、アベノミクスは目的を達し得ていないと指摘するに留まっています。つまり、与党も野党も根は同じで、成長率を高めることに重点を置いているわけです。

 しかし、果たして本当にそれでいいのか。成長、成長と唱え続け、私たちはどこまでも上り続けなければならないのでしょうか。私は、そうは思いません。この数十年、成長を求めるあまりに、構造改革なるものが進められ、私たちは「幸せ」になったでしょうか。地方は疲弊し、格差が広がり、教育は崩壊。成長を求めた結果、日本社会はこうした問題を抱えてしまった。

 グローバル競争の波に飲み込まれ、私たちはそれを勝ち抜くための部品、歯車として扱われているかのようです。グローバル戦線で勝利するために「1億総活躍」が掲げられていますが、活躍・貢献できない者は、あたかも「落ちこぼれ」として見捨てられていく感すら漂っています。競争によって私たちは他人を蹴落とさなければ自分の生活が確保できない時代を生かされている。世界で勝ち抜くための「価格破壊」は「雇用破壊」に至り、いずれ「人間破壊」に行きつくのではないかとの危惧を覚えます。

 どこぞの野党みたいな物言いになってしまいますが、やはり「人間が第一」です。にも拘(かかわ)らず、現況は「人間」よりも「成長」が優先されている。私たちはなぜ、成長を絶対善の如く崇めるようになってしまったのか。それは、未だに「精神的な占領」を受けているからだと言えるかもしれません。

 日本の戦後経済史を振り返ってみます。1955年までは経済成長というよりも復興の時代にあたり、56年には経済白書に「もはや戦後ではない」というフレーズが登場するわけですが、70年代前半までの約30年間、日本は急速な勢いで経済成長を続けました。しかし、田中角栄が金脈政治によって失脚すると、日本人は一度、立ち止まろうとします。あまりにカネ、カネと言いすぎたのは過ちだったのではないかと。モノより心を大事にすべきではないか、肝腎なのは成長の「率」より「質」ではないかという議論が勃興したのです。

 その象徴が78年に首相に就任した大平正芳の「田園都市構想」でした。高度成長路線を捨て、豊かな田園に覆われた日本をもう一度目指そうというものです。

 海外でも、英国の経済学者シューマッハーが73年に発表した『スモール・イズ・ビューティフル』が大ベストセラーとなり、拡大路線との決別が注目されました。ローマクラブも、72年に資源問題から見た「成長の限界」を発表。それにあわせるようにして日本では高度成長時代が終焉を迎えました。成長の季節は過ぎ、これからは新しい時代に入っていくと、世界的にも思われていたのです。

■「今なお戦後である」

 ところが81年、米国の大統領にレーガンが就きます。彼は米国経済の再生を掲げ、強い経済を武器に、最終段階に入ったソ連との冷戦を制することを目指す。そこで出現したのが新自由主義です。今につながるグローバル化の始まりです。これに英国首相のサッチャーが同調し、そして82年に首相に就任した中曽根康弘もそれを後押しします。日米関係強化の名のもと、米国債を買い支えるなどしてレーガン路線を支持した。こうして米国の新自由主義路線に追随し、80年代後半にバブルが起き、90年代初頭に崩壊。世界的に見ると、冷戦が終わり、そこに生じた巨大な世界市場を、レーガン路線を引き継いだクリントンがIT革命と金融を武器に勝ち取っていきました。

 その間、日本は田園都市構想などなかったかのように米国に付き随い、言われるがままに構造改革、規制緩和を進め、日本型経営システムを放棄していった。つまり90年代以降、日本は何をしていいのか目標や目的を見失い、米国の要求をとにかく飲み、何のポリシーも持たないまま、今日に至っているわけです。

 当初、中曽根政権の動機は社会主義との対決という政治的なものでした。しかし、日米同盟を強固なものにして冷戦の終結をサポートしようとした結果、経済も巻き込まれてしまった。他人の頭を借りてしかものを考えてこなかった点において、私たちは未だに精神的に占領されているわけです。それは今も続いており、戦後71年が経ちましたが、「もはや戦後ではない」のではなく、「今なお戦後である」ということになるのかもしれません。

 こうして、米国主導で作り上げられた新帝国主義とでも言うべき拡大路線、グローバル化のなかで、日本も成長競争の渦に飲み込まれていきます。しかし、「失われた20年」と言われるように、米国の圧力にしたがって構造改革を押し進めてきたものの、一向に経済はよくならない。グローバル市場の覇権は米国が握っており、中国などの新興国が台頭。日本だけひとり負けしているのではないか――。そこでアベノミクスが登場します。新帝国主義時代を勝ち抜くには、1億一丸となってこの経済戦争に立ち向かわなければならないとの方針が打ち出される。つまりアベノミクスとは、もう一度、徹底的にグローバル競争をしようという経済政策なのです。

 今の経済は金融中心であり、金融は集団心理で動きます。皆が、経済がよくなると思えば株価は上がり、悲観的になれば下がる。金融政策で市場に金を撒くアベノミクスへの期待感から経済は多少上向いたかに思えましたが、その実態は為替で円が下がり、輸出がある程度増えたまでのこと。とどのつまり、グローバル経済頼み、海外頼みだったのです。したがって、EUの不安定化や中国の失速でグローバル経済が揺れると同時に、残念ながらアベノミクスの限界も見えてきた。

 しかし、これは当然の帰結なのです。グローバル化が急速に進み、世界経済に「フロンティア」はなくなった。つまり、世界経済全体にのびしろがなくなってきているのですから、海外頼みでは成長できるはずがない。しかも、皮肉なことにグローバル化を勝ち抜くために構造改革、効率化が進められた結果、新興国の安い労働力との競争にさらされ賃金が下がった。これでモノが売れるわけはない。

 それでも、いわゆる構造改革派はこう言うことでしょう。日本経済がダメなのは、改革がまだまだ足りないからだと。改革が中途半端だからグローバル競争に勝ち抜けないのだと。しかし、これは乱暴な議論と言わざるを得ない。なぜなら、「失われた20年」は構造改革の産物なのですから。今や地方では当たり前の景色となったシャッター街は、規制緩和の所産なのです。

■「成長」と「改善」

 こうした現状を踏まえ、私たちはどんな道を目指すべきなのか。私は「脱成長主義」へ転換すべきだと考えます。血相を変えて高成長を目指さずとも、低成長で構わないではないかと思うのです。そう言うと、「佐伯は戦わずして負けるつもりなのか」「成長を捨てて江戸時代にでも戻すつもりか」などという批判が起きる。バカバカしい限りですが、私は成長を止めろと言っているわけではなく、低成長でいいではないかと言っているに過ぎません。より正確に言うと、脱「成長」ではなく脱「成長主義」です。価値の問題です。

 そもそも、GDPに占める輸出の割合は15%程度に過ぎません。残りは、6割を占める個人消費を含めて、国内でカネが回っている。ならば、必死になってグローバル競争に勝つべく輸出にばかり目を向けるのではなく、もっと国内循環に力を入れればいいのではないかと言っているのです。

 そこで大事なのは「成長」と「改善」の概念を分けて考えることです。脱成長主義のもとでも家は建て替えられ、スマホだって買い替えられる。つまり、私たちの生活は改善されていくのです。もともと、高成長し続けなければならないという考え方は米国型発想です。本来この考え方自体、日本人にはあわない。私たちは「分をわきまえる」だとか「足るを知る」といった文化を育んできたはずです。日本だけでなく、先進国が概(おおむ)ね人口減問題を抱えるなか、今こそ「足るを知る」時なのではないでしょうか。成長率のために道徳律を犠牲にすべきではない、ということです。成長率とは、人口増加率と労働の生産性で決まるものですが、生産性も需要が伸びなければ上がりません。このことから考えても、高成長はもはや持続し得ないでしょう。

 例えば、「マイルドヤンキー」という言葉があります。決して裕福ではないけれど、若くして仲間内で結婚し、たくさんの子どもを産んで、地元の友人や家族、親戚との関係を維持しつつ、「それなり」に暮らしていく地方の若者層を指すそうですが、これもあり得べき家族像のひとつかもしれません。

 また、グローバル競争に血道を上げて莫大な金を成長戦略に投じるよりも、教育や医療、防災といった「人間」のために注ぎ込むことを重視すべきなのではないでしょうか。

 福沢諭吉は『文明論之概略』にこう記しています。

〈国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり〉

 つまり、文明化することそのものではなく、独立が重要なのだと説いた。今日にあてはめれば、グローバル化するよりも国民生活を充実させるほうが大事だということになる。これは当然で、大事なのは西洋化、つまりグローバル化ではなく日本そのものなのです。むろん鎖国せよと言っているわけではありません。見せかけの繁栄や虚飾の富に目を奪われずに、独立の「気風」を保つことが重要だということです。「成長」よりも、より大切な価値があるはずなのです。

 先の伊勢志摩サミットで日本が訴えるべきは、安倍首相の言葉にあった「構造改革を果断に進める」といったことではなく、「脱成長主義」だったのではないでしょうか。いや、アベノミクスは改革が「足りなかった」のだから高成長できないのだ、次はもっと改革ができる人を――。こうなることが一番恐ろしい。私たちは、一体いつ「足ること」を知るのか。安倍首相が言うところの戦後レジームからの脱却が、今まさに経済面において求められているのだと私は思います。

「特別読物 アベノミクスの限界が見えて 日本は『脱成長主義』の道を選ぶべきだ――佐伯啓思(京大名誉教授)」より

佐伯啓思(さえき・けいし)
1949年生まれ。社会思想家。東大経済学部卒。保守主義の立場から、経済や民主主義など、さまざまな社会事象を分析。『さらば、資本主義』など著作多数。

週刊新潮 2016年9月8日号掲載

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