ケンブリッジ飛鳥を「チーム・ボルト」に導いた日本人女性

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〈人生とは、真の自分を見つける旅路である。それに失敗したなら、他に何を見つけても意味はない〉――。米国の作家、ジェームズ・ミッチェナーの旅をめぐる格言だ。隆々と盛り上がる大胸筋と強い体幹。茶褐色に光り輝く上腕筋にハムストリング。彼にあるべき自分の姿を発見させ、未知の領域に達する“武器”を与えたのもまた、父の祖国への旅だった。その裏にはジャマイカ在住の日本人女性の助力があったという。

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可能性を秘めたケンブリッジ飛鳥の走り

 8月14日(日本時間)に行われたリオ五輪陸上男子100メートルの予選。9秒台が4人も顔を揃える第4組に登場したケンブリッジ飛鳥(23)は、圧巻の走りを見せた。80メートル地点では5位に甘んじていたが、残り20メートルで驚異の加速。3人を抜き去り、堂々の着順2位で準決勝進出を果たしたのだ。

「後半部分でスピードを発揮できるのは、まさに筋力の賜物以外の何物でもない」

 と解説するのは、元日本記録保持者の不破弘樹氏だ。

「素晴らしいのは、とりわけ腹筋など臍(へそ)周りの筋肉。同様の筋トレを、他の日本人選手がやっても、彼のような体にはなれません。やはりジャマイカ人とのハーフというのは強みです」

 残念ながら準決勝で敗退となったが、

「大会中に9秒台が出たとしても、おかしくない走りだった。10秒の壁を越えるのは時間の問題でしょう」

 もっともこうした筋力は、ハーフだからというだけで、簡単に身につくわけではない。陸上担当記者が語る。

「2年前、ケンブリッジは、父親の祖国、ジャマイカに渡り、世界最先端の環境で練習する機会を得たのです。両親は彼が幼少の頃、別れ、母親はケンブリッジを連れ、日本に帰国した。だから、彼は約20年ぶりにジャマイカの地を踏んだことになる」

「チーム・ボルト」で研鑽を積んだケンブリッジ飛鳥

■チャンピオンの哲学

 実際にはわずか1週間の武者修行だったようだが、内容は濃いものだった。

「彼を受け容れたのは、あの世界記録保持者、ボルトのコーチたちが教える『レイサーズトラッククラブ』だった。『チーム・ボルト』で研鑽を積んだわけです」(同)

 彼に指導を施したボルトのコーチ、ジャーメン・シャンド氏の話を聞こう。

「奴のことはよく覚えている。体が細く、ひ弱だった。まずはジャマイカ選手のように分厚い肉体にならないと、スプリンターにはなれない、とアドバイスした。1週間とはいえ、彼の眼の色は変わり、多くを学んだ。世界一級品の選手たちの体の動きを観察し、筋トレ、ランニングの練習法も体得した。チャンピオンのメンタルや哲学にも触れられた。収穫が大きかったから日本王者になれたのだろう」

 彼のトレーニング参加を斡旋したのは、首都キングストン在住の日本人女性だったという。その女性、長瀬玲子氏を探し当てたところ、こう語ってくれた。

「私はもうここに二十数年住んでおり、コンサルティング会社を営んでいます。かつてジャマイカに住んでいたケンブリッジ君のお母さんと友人で、彼女から、“息子がそちらでトレーニングしたがっている”と相談があったんです。そこで『レイサーズ』を紹介した。彼は英語ができないので、ほぼ毎日、私が通訳しました。彼は自分が求めていた新しい世界を見て、“何かが拓けました”と語っていた」

 4年後に向け、ケンブリッジの新たな旅は始まったばかりだが、スティーブ・ジョブズの言葉を俟(ま)つまでもなく、重要なのは目的地に着くことだけではない。

「その過程にこそ価値がある」

「ワイド特集 やがて哀しき『リオ五輪』」より

週刊新潮 2016年8月25日秋風月増大号掲載

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