中村紘子、がんと闘いながら設立の「日本パデレフスキ協会」

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 日本にコンサートホールが一つもない時代にピアノを始め、やがて日本中の家庭にピアノを普及させた女性、それが亡くなった中村紘子さんだ。彼女が晩年、情熱を注いだのは、あるピアニストの名を冠した音楽団体の設立だった。

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「難民」の先生に育ててもらった

「中村紘子さんは戦後日本で、“日の丸を背負ったアーチスト”でした。その意味で、小澤征爾さんと双璧の存在。ピアニストという存在を超えた文化人で、そのスター性と大衆性でクラシック音楽文化の普及に大きく貢献しました」

 そう振り返るのはクラシック雑誌「モーストリー・クラシック」の初代編集長で音楽プロデューサーの田中良幸氏だ。中村さんと言えば、ショパンコンクールでの入賞やNHK交響楽団でのソリスト抜擢が有名だが、一方で様々なコンクールの審査員を務め、若い才能の発掘に尽力したことでも知られている。

「その集大成が浜松の国際ピアノコンクールです。チャイコフスキー・コンクールやショパン・コンクールと肩を並べる、日本発のコンクールを目指し、本当にそれを実現した。中村さんの真骨頂でもありました」(同)

 ピアノのためには、芸術の殻に閉じこもることを良しとしなかった。親交のあった天川由記子氏(国際関係学研究所所長)が言う。

「芸術家と呼ばれる人たちは政治と距離を置きたがるのですが、中村さんは政財界の方々とむしろ積極的に交遊を持っていました。ピアノ文化の普及を含めて考えていたからでしょう。たとえば、元駐日米大使のアマコストさんの奥様はジュリアード音楽院の同窓生ですが、中村さんは彼女をコンサートに招待しては連弾を披露したものです。そこには夫のアマコストさんも来る。後に大使公邸でのイベント実現などにもつながってゆくのです」

 原点にあるものは、自分を育ててくれた人たちの存在だ。

■パデレフスキ協会

「難民を助ける会」の柳瀬房子会長は、チャリティコンサートで数えきれないほど中村さんに演奏してもらった。

「なぜ難民のためにと思われるかも知れません。先生は若い頃、ニューヨークに留学していますが、指導を受けた先生の多くが亡命者や難民として渡米してきた人たちだったのです。“難民の人たちのお蔭で今の自分がある”と仰って快く引き受けてくれたのです」

 その思いは、晩年に情熱を注いだ音楽団体の設立にもつながっている。2年前、大腸がんが見つかった頃から力を入れていたのが、「日本パデレフスキ協会」だ。パデレフスキとは、天才ピアニストでありながらポーランド首相も務めた人物のこと。日本では馴染みがないが、かの国ではショパンより人気がある。中村さんは著書『ピアニストという蛮族がいる』でも紹介している。自らもピアノを嗜み、日本パデレフスキ協会の会長になった細田博之氏(自民党幹事長代行)が言う。

「パデレフスキはナチやソ連の圧政に耐えたポーランドの立て直しに奔走した人です。私財も国の発展のためになげうった。“細田さんも政治家兼ピアニストなんですから会長をやってください”と中村さんに頼まれて4月に設立したばかりだったのに……」

 享年72、中村さんの夢は「パデレフスキ国際ピアノコンクール」に日本の有能な若手演奏家を送り出すことだった。

「ワイド特集 鉄の女の『金』『銀』『銅』」より

週刊新潮 2016年8月11・18日夏季特大号掲載

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