93歳で関ヶ原に参戦! 信長も認めた弓の名手、驚きの生涯
隠居せず、戦場に立ち続けた実在の武将
「アラハン」という言葉をご存じだろうか。アラフォー、アラフィフと同じように、アラウンド・ハンドレッド(=100歳前後)の人々を指す言葉だ。最近では100歳近くになっても活躍する長寿者も増えている。
だが、血で血を洗う戦国時代に活躍したアラハン武将が実在したことはあまり知られていない。
戦国時代、93歳にして天下分け目の関ヶ原に臨んだ大島光義という弓の名手がいた。信長の家臣として、一部の戦国マニアには知られた人物という。
にわかには信じがたい話だが、近衛龍春による歴史小説『九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義』によると、1508年美濃国生まれの光義は、孤児から身を立て、弓の腕前で還暦すぎてから信長に重用され、秀吉、家康と天下人三代に認められて生涯現役を貫いたという。その弓の技は、『丹羽家譜伝』に「百発百中」とも記され、その働きを讃えた信長によって「雲八」という名前を与えられたらしい。
小説のなかで、弓ひと筋の光義は、あるとき思うところあって還暦すぎて鑓(やり)の修行に邁進する。近衛は言う。「宝蔵院という場所で修行をしたのは創作ですが、光義が鑓の修行をしたのは事実です。『寛政重修諸家譜』に、3年間、鑓で戦い、感状(戦功を称えられた文書)4通を得た、とあります」。老年にさしかかってなお、「新種目」に挑むそのバイタリティあってこそ、後に93歳で天下分け目の合戦に挑むことができたのではないだろうか。鑓のエピソードのほかに、姉川、野田、長篠での戦功、法観寺の八坂の塔に10本の矢を射込んだことなどは、史実に基づくという。光義が84歳のときに、秀次の命を受け、八坂の塔の最上階天井に10本の矢を命中させるエピソードは、小説のなかの名場面のひとつだが、これが史実に基づくとは、驚きである。
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生涯現役を貫いて、隠居せず、弓を引くこと80余年。97年の生涯で参戦した合戦は53、得た感状は41枚……。このような希有な人生はなぜ可能となったのか。小説のなかでも、家康が「なにゆえ、そこまで長生きできたのじゃ」とその秘訣をたずねる場面があるが、近衛は「細かいことにこだわらず、生涯、弓への探究心を持ち続けたことではないでしょうか」と推察する。
弓の名手といえば、60歳をすぎて活躍したことが描かれる『三国志演義』の黄忠も知られているが、中国では歳をとってますます盛んな人を「老黄忠」と呼ぶようだ。その黄忠をはるかに超しているのが大島光義だ。
鉄砲全盛の時代に、時代遅れとなった弓ひと筋を貫いた「戦国アラハン武将」の生涯が、100歳超えが他人事ではなくなった現代社会に投げかけるものは大きいのではないだろうか。