鳥越俊太郎の無節操の履歴書 女優にバラ100本、キャスター時代に「テレビって楽」
東京都知事選は、渡り鳥政治家と地味過ぎる元総務大臣の戦いかと思ったら、土壇場で鳥越俊太郎氏(76)が手を挙げた。だが、彼の立候補の理由や政策を聞いても、ピンと来ないという声がしきり。この人の無節操な履歴書を見れば、それも当り前に思えてくるのだ。
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ロン毛で、髪の毛を掻き上げる仕草が妙に艶っぽいと評判だった鳥越記者。特に、年上女性にモテたという。テヘラン支局時代、フランス在住だった女優の岸惠子(83)と噂になったこともある。
鳥越氏は毎日新聞出身のジャーナリストとして知られるが、毎日での経歴はかなり異色。最初の配属先は新潟支局だが、「サツ(警察)回りは向かない」との烙印を上司から押され、農業を取材。大阪社会部で6年間、東京社会部に1年あまり籍を置いたのち、1976年7月に「サンデー毎日」に異動する。
サン毎で約6年過ごし、週刊誌記者として一人前になったかと思うと、今度は1年間休職して、自費で米国の地方紙に実習生として留学。帰国後、留学経験を活かすべく外信部へ異動になった。
「本人は米国の特派員を希望してました。ところが、実際は内勤を数カ月やった後、イランのテヘラン支局長を命じられた。本人も全く予想していなかったそうです」(毎日OB)
■岸惠子との噂
ロン毛で、髪の毛を掻き上げる仕草が妙に艶っぽいと評判だった鳥越記者。特に、年上女性にモテたという。テヘラン支局時代、フランス在住だった女優の岸惠子(83)と噂になったこともある。
「彼女は『文藝春秋』の85年2月号と3月号に、〈岸恵子イランをゆく〉というタイトルのルポを2回に分けて寄稿しています。この記事の中で、案内役として〈M社のA氏〉という現地の特派員が登場します。実は、このA氏こそ、何を隠そう鳥越さん本人なんです」(同)
実際、記事を読むと、
〈新聞社や商社の人達には、不自由な単身赴任が多いので、私はM社のAさんの家で、大鍋にボルシチを作ろうと思った。〉
なんていうくだりもある。
「岸さんの方は、既にフランス人の映画監督と離婚し、独身でした。一方、鳥越さんは、むろん日本に妻子がいたものの、社内では只ならぬ関係ではと話題になったものです」(同)
実際、当時を知る女性は、
「毎日のテヘラン支局に行った際、冷蔵庫に女性の字で書かれたレシピが貼ってありました。鳥越さんは、『岸さんが僕のために書いてくれたんだ』と自慢していたのを覚えています。彼はとにかくマメで優しかった。出馬の会見で女性記者から『弱点があれば教えてください』と質問された。それに対し『そんなのは二人きりになった時、聞くもんだ』なんて答えてましたが、鳥越さんは全く変わってないな、と思いました。ああいう言い方が自然にできる人なんです」
■鳥越氏本人は…
二人の出会いは、82年7月で、
「ドイツのデュッセルドルフで毎日新聞主催の教育シンポジウムが開催されました。岸さんは、フランスからパネリストとして参加した。このシンポジウムに、米国に留学中の鳥越さんが駆け付けたのです。彼は、京大のグリークラブ(合唱団)出身で、歌が非常に上手い。一説によると、その打ち上げの席か何かで、鳥越さんが歌い、彼女が感激。それを契機に親しくなったと言われています」(毎日OB)
二人が非常に親密だったのは紛れもない事実だが、
「鳥越さんは、岸さんに仕事を受けてもらうために、バラを100本プレゼントしたこともあるという。人を口説く時は、それくらいやらなきゃ駄目という意味で、本人が昔よく語っていたエピソードです」(同)
鳥越氏に聞くと、
「友人としての交流があることは事実です」
と、語るのみである。
テヘラン特派員を務めたのは1年半。85年夏に帰国。外信部の内勤を経て、今度こそ米国特派員になれると思っていた。が、86年3月頃、再びサン毎に戻り、88年4月に編集長になった。
「89年6月には、宇野宗佑総理の愛人問題を掲載し、辞任に追い込んだ。元々、政治部にタレコミがあり、サン毎に回ってきたネタですけどね。しかし、当時、テレ朝幹部の小田久栄門さんから声を掛けられ、毎日を退社したのです」(先の毎日OB)
鳥越氏は、自らを「好奇心が強く、悪く言えば飽きっぽい」と評する。だが、彼の経歴をひもとけば、「節操のない生き方」と言える。
■「俺が出ていれば…」
「ザ・スクープ」のキャスターに転身してからは、年収は毎日時代の数倍になったという。
「テレ朝は六本木にあるので、近くに住んだ方がいいと、家賃40万円の品川レジデンスに住んでいました。そこに奥さんが小金井の自宅から身の回りの世話をするため通っていた。車はBMWが好きで、2台持っていましたね。専属の女性スタイリストも付けていた」(テレ朝関係者)
新聞記者とは、生活が一変したというわけである。
とはいえ、「ザ・スクープ」に関わった番組制作会社の幹部は、
「鳥越さんは、新聞記者時代に比べたら、自分で取材する機会は激減していましたよ。あの番組は、複数の制作会社を同時に動かしていて、各社が持ってくるネタを鳥越さんが気に入るか、気に入らないかだけで内容が決まる。番組をやり始めて、3~4年した頃かな、鳥越さんは『テレビって楽だね』なんて言ってました」
06年5月には、インターネット新聞「オーマイニュース」日本語版の初代編集長に就任した。しかし、約1年で辞任している。
「編集長に就任してすぐに、鳥越さんにがんの転移が見つかった。それから編集部に殆ど来なくなりました。実質的な仕事は何一つやっていません」
と、オーマイの関係者。
「今も覚えているのは、07年4月、石原慎太郎さんが3選を目指し都知事選に出馬、圧勝した時のこと。投開票日の翌日、鳥越さんは編集部に顔を出し、スタッフの前で『俺が出ていればこんな結果にならなかったのに』と言い放ったんです。その場にいた人は、病人で仕事もしていないのに何を言ってるんだ、と怒っていた。当時、彼はがんを理由に民主党からの立候補要請を断りましたが、本当はやる気満々だったんです」
憲法改正を阻止したいと言う鳥越氏。が、地方行政と国政は異なる。木に竹を接ぐような違和感を覚える人は少なくない。ご本人はそんな指摘はどこ吹く風。節操がないからこそ、今さら立候補したのだから。
「特集 『岸惠子』にバラ100本! 政策がボケボケ! 76歳『鳥越俊太郎』無節操の履歴書」より
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