記者時代の鳥越俊太郎、上司から“サツ回りは向かない”の烙印 あだ名は「御家人くずれ」
都知事選での後出しジャンケンは、都民はどうせ有名人好き、政策は二の次、三の次と考えている人が使う手である。今回、土壇場で立候補した鳥越俊太郎氏(76)には、最後までこうした批判が付きまとう。政治記者が語る。
知名度だけで戦うつもりか
「告示前の公開討論会で“がん検診100%を達成したい”と都知事候補として頓珍漢なことを言っていた。準備不足は明らかでした。だからこそ、選挙運動は一生懸命やると思ったんですがね。しかし、街頭演説は1日1~2回と、他の候補に比べ極端に少ない。17日放送の『新報道2001』(フジテレビ系)も小池さんや増田さんは出演を予定していたのに、鳥越さんが出ないと言い出し、討論会が流れました。元がん患者で高齢という理由もあるが、鳥越陣営は、下手に露出してボロを出すより、鳥越さんの好感度が落ちないよう敢えて露出を控える戦略を取っています」
鳥越氏は、1989年10月から「ザ・スクープ」(テレビ朝日系)で、長年キャスターを務めた。九州訛りの残る喋りは、お世辞にも上手いとは言えない。選挙演説も下手。それでも、彼が信頼されているのは、毎日新聞出身のジャーナリストだからである。
■スクープした記憶はない
もっとも、毎日での経歴はかなり異色だ。京都大学文学部に7年通った後、毎日新聞に入社したのは65年4月。最初、新潟支局に配属されるも、上司から「サツ(警察)回りは向かない」と烙印を押される。そこで農業の取材を始めた。経済部行きを希望していたが、次の異動先は、大阪社会部であった。
大阪読売社会部時代に鳥越氏と出会い、フリーになってから親交を深めたジャーナリストの大谷昭宏氏は、
「当時の鳥越さんはトレンチコートの襟を立てて、黒髪の長髪をなびかせ颯爽と現場に向かうダンディーな記者だった。ただ、記者としての彼の実績はというと、スクープした記憶はありません。本人もそれを認めていて、『あの頃は読売の記者に抜かれる夢を見た』なんて言ってました」
同僚と連れ立って飲みに行くこともなく、一人でコツコツ取材するマイペースな記者だったという。大阪社会部に6年籍を置いた後、75年2月に東京社会部へ。が、76年7月、今度は「サンデー毎日」へ異動となった。サン毎OBは、
「彼は良くも悪くも目立ちたがり屋で、新しいことに挑戦しようという雰囲気があった。その点が週刊誌記者向きだと思われ、声を掛けられたんだ」
と明かすが、元サン毎編集長の八木亜夫(つぎお)氏は言う。
「でも、最初、彼は『社会部にいたい』言うて、ごっつう抵抗しとった。飲ませ食わせして、最後は脅し上げて、口説き落としたんや。サンデーに来てからは、なかなかユニークな仕事をしてましたよ。田中角栄がロッキード事件で失脚後、選挙に出た時のことや。鳥越が『角栄の選挙区に行って密着取材をしたい』と言うてきたんや。なかなか面白いレポートを連載で8回も書いてたわ」
■あだ名は「御家人くずれ」
当時、鳥越記者は30代半ば。既に結婚し、二人の娘も誕生していたが、
「あいつは、紺色のコールテンのズボンが一張羅でね。そればっかり穿いてたから、テカテカになってたわ。しかも、そのズボンを寝押ししてるって言うんやわ。それがおしゃれでダンディーやと思ってたんやろ。で、ある日、鳥越が夜中にふと目を覚ますと、嫁はんが布団の下からズボンを取り出して、ポケットから100円玉を盗ろうとしてたんやて。当時はそれほどカネがなかったんや」(同)
八木氏も鳥越記者の長髪が印象に残っているそうで、「御家人くずれ」という渾名を付けたという。毎日OBもこう言う。
「長い時は、肩にかかるくらい伸ばしていました。それに香水を付けていたこともある。彼がその場を去っても、5分くらいは臭いが残るほどでした。あんな記者はそうはいなかったから、目立っていました。髪型にも相当なこだわりがあったのでしょう」
テレビ朝日関係者も、
「旧ソ連に取材で行った際、宿泊先のホテルにドライヤーがなくて怒り出したそうです。ロン毛で、髪質は硬く量も多い。どこへ出かけるにも、ドライヤーは必需品なのです」
「特集 『岸惠子』にバラ100本! 政策がボケボケ! 76歳『鳥越俊太郎』無節操の履歴書」より
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