海外からの観光客も殺到! 鈴木プロデューサーが語った「ジブリの大博覧会」の思想
■あえて雑然と並べる
7日から六本木ヒルズ展望台東京シティビューで開かれている「ジブリの大博覧会~ナウシカから最新作『レッドタートル』まで~」は夏休みにぴったりのイベント。
1984年公開の「風の谷のナウシカ」からこの秋公開予定の「レッドタートル ある島の物語」まで30年以上にわたるジブリ全作品の資料が一挙に展示されており、初日から海外からの観光客も含む、大勢のスタジオジブリ・ファンが詰めかけている。
博覧会のテーマは、宣伝・広告の側面から見たジブリの歴史。これまでジブリで宣伝を担ってきた鈴木敏夫プロデューサーは、この大博覧会の「原作」とも言える『ジブリの仲間たち』(新潮新書)の中でこう明かしている。
「映画を公開する前に、お客さんの目にまず触れるのは、ポスター、チラシ、新聞広告、パブリシティのためのグッズ、劇場に展示したバナーなどなどの宣材物のはず。だとしたら、ジブリ全作品の宣材物を見て貰うのは意味がある。お客さんにとって楽しいに違いない。そう考えた。しかも、整然と並べるんじゃなく、あえて雑然と並べる。言ってみれば、お客さんの頭の中にある雑然をそのまま丸ごと展示してみようと考えた。
だから、大事なのは数だった。ああ、アレが無いね。お客さんにそう言われたら、それだけで失敗だ。結果、集めた宣材物は2000点余に及んだ」
ジブリ全作品の資料が一挙に展示
完成形とはまるで違うポスターの原案、宮崎駿監督直筆の企画書、鈴木プロデューサーの宣伝スケジュール表、多種多様な新聞広告、ネコバス(大人も乗って記念撮影可能)……。立ち止まってじっくり見たくなる展示物ばかりで、場内整理の係員が先に進むよう促す光景もあった。
■糸井重里さんの名コピーが生まれるまで
博覧会の中でも興味深いのは、鈴木さんと糸井重里さんのキャッチコピー決定までのFAXでのやり取りだ。糸井さんが苦悩のすえ、コピーの狙いを伝える。鈴木さんはなだめたり、すかしたりしながら督促し、さらに別案を要求し……。名コピーとして知られる「もののけ姫」の「生きろ。」も、ジブリ側は「近い!」と言いながら、新たな案を求め、糸井さんもそれに応えていたことがわかる資料も展示されている。
ジブリと糸井さんがコンビを組んだのは、新潮社のせいだった。正確に言うと、新潮社がいいコピーを生み出せなかったせい。1988年、「となりのトトロ」を徳間書店が、「火垂るの墓」を新潮社が出資、ジブリが制作し、同時上映するという企画が進んでいた。ところが、会議をいくら繰り返しても、出版社の出してくるコピーは出版の枠を超えるものではなかった。
そこで、鈴木プロデューサーが考えついたのが、誰もが納得するようなコピーライターを連れてきて任せてしまおう、という手だった。『ジブリの仲間たち』によると――。
鈴木プロデューサー
「当時、有名なコピーライターといえば、糸井重里さんをおいて他にいなかった。というより、門外漢の僕が唯一知っているコピーライターが糸井さんだったんです。糸井さんは、西武百貨店の『不思議、大好き。』や『おいしい生活。』などのキャッチコピーで有名になり、テレビに出たり、雑誌で連載を持ったりもしていました。しかも、新潮社から本を出していた。そういう人の言うことなら、みんな黙って言うことを聞くだろうと考えたわけです。
ある意味、不純な動機で依頼したわけですが、できあがってきたコピーは想像以上にすばらしかった。
『火垂るの墓』が『4歳と14歳で、生きようと思った。』
『となりのトトロ』が『このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。』
さらに、2本をつなげるブリッジコピーが『忘れものを、届けにきました。』
プロの技というものを感じました。
ただ、じつは『トトロ』の最初のコピーは、
『このへんないきものは、もう日本にいないのです。たぶん。』だったんです。でも、宮さん(宮崎駿監督)が『いる』と言うので、いまの形になりました。
『火垂る』も、最初のコピー案は『これしかなかった。七輪ひとつに布団、蚊帳。それに妹と螢。』というものだったんです。僕はすごく気に入っていたんですが、新潮社のほうから『難しすぎる』という意見が出た。そこで糸井さんに作り直してもらったのが、『4歳と14歳』だったのです。
いずれにしても、名コピーですよね。実際、これらのコピーが決まったことによって宣伝はうまくまわり始めます」
「ジブリの大博覧会」は9月11日まで。じっくり見るお客さんが多いため、入場に時間がかかる場合あり。公式Twitterが細かく情報を更新しているので、まずはチェックを。