高倉健が建てた水子地蔵が更地に…江利チエミとの子 養女が売却の可能性も

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 映画俳優・高倉健(本名・小田剛一)が鬼籍に入ったのは、2014年11月10日のことだった。享年83。この後、全ての遺産を相続した養女の存在が明かされ、世間を驚かせた。そんな彼女は無情にも、江利チエミとの水子を祀った鎌倉霊園の墓を更地にしたのである。

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江利チエミ(1963年撮影)

 ヒラドツツジが咲き誇るなか、鎌倉なら僕ら私たちでしょと言いたげに、アジサイが顔を覗かせる。

 神奈川県鎌倉市の中心地から離れ、東京ドーム12個分と広大な敷地を誇る鎌倉霊園。花もさることながら、過ぎゆくもの、新たにやってくるものが交差するのは、墓地ならではの光景である。

 ジャーナリストの徳岡孝夫氏は著書『舌づくし』で、墓地というものをこんな風に描写している。

「一つ一つの墓石は、たとえ背の高いのでも、たかが知れている。通路の幅はたっぷりある。日光と風を遮る物は何もない。人間が健康に生きていくために最も必要な日照と通風を、人は皮肉にも墓地に入って、死んではじめて満喫できるのである」

 川端康成、山本周五郎、堀口大學ら文豪・詩人。美智子皇后の父・正田英三郎やこの地を分譲した西武グループ総帥・堤康次郎などの実業家。そして、小野榮一と横書きされた墓石も目に入る。これは昭和を代表する俳優・鶴田浩二の本名。とにかく、いずれ劣らぬ多士済々が、この地で日照と通風を満喫しているわけだ。

 鶴田とは「昭和残侠伝」シリーズで共演した健さんが、ここに墓を求めたのは1972年のこと。同じ東映で活躍した萬屋錦之介の熱心な勧めがあり、見に行ったら一遍で気に入った。正門から最も離れた小高い山の一区画の、約27平方メートルの四角い敷地。今回、更地となった現場だが、もう少し古い話を続けよう。

「高倉健にとってこの年というのは……」

 と振り返るのは、ベテラン芸能記者のひとり。

「江利チエミと離婚した翌年に当ります。世田谷の自宅に転がり込んでいた江利の異父姉が彼女の実印を使って預金を下ろしたり、不動産を抵当に入れ、高利貸しからカネを借りた。結果、数億円を横領。その負債が江利に圧(の)し掛かり、“迷惑をかけたくない”と彼女が離婚を申し出たのです」

 小田家の事情をよく知る関係者が後を受け、

「もともと彼は大学生のころから彼女のファンでした。『テネシーワルツ』が流行したのもちょうどそのころで、飽きるんじゃないかってほど繰り返し聞いていました。それが念願叶って映画で共演して、気持ちが燃え上がったんでしょう」

 デビュー年にあたる56年の映画「恐怖の空中殺人」で出会い、3年後にゴールイン。62年に江利は身籠るが、妊娠高血圧症候群のために中絶を余儀なくされたのだった。

 先に触れた通り、墓地を購入した健さんは、江利との間の水子を祀る地蔵を置いた。こだわって選んだ八光石でできた像は高さ約1メートル。その奥には小さな墓石を建て、本名と役者名を組み合わせた「小田健史」の名ならびに「小田家先祖各霊菩提」と刻んでいた。

 それからというもの、折に触れて健さんはここを訪ね、鎮魂を祈ってきた。だから、

「健さんが亡くなれば大きな墓石を置き、遺骨はここへ納骨される。誰もがそう信じて疑わなかった」(同)

 この“シナリオ”が狂い始めたのは、健さんが亡くなった直後。生前、世田谷の自宅に住みこんで、彼の身の回りの世話をしてきた元女優(52)を養子にしていた事実が明らかになったときだ。彼女は、唯一の子として預貯金や不動産を全て相続。そのうえで、健さんと縁のある者に対し、異様としか言いようのない排斥主義を奉じながら接していく。具体的には、長らく助け合ってきた実の妹にも健さんの死を告げず密葬を行ない、戒名はなし。四十九日もせず、散骨し、鎌倉霊園には入らない……などといったもの。「これらはすべて故人の遺志」と養女は主張するのだが、生前の名優を知り、深く交際したものであればあるほど、胸に痛く響く項目の羅列だった。

■「切なく思っている」

 そんななか、相続人の意向で、5月23日から世田谷豪邸の一部解体が始まり、これと相前後し、鎌倉霊園の墓地から水子地蔵や墓石が撤去された。そこにはただ茶色い土があり、花が2つ手向けられているものの、すでに萎びている。他ならぬ健さんの甥・森健氏の、

「ついにこの日が来てしまったか……」

 という口ぶりから察すると、関係者には誰しもピンとくることの多い、とはいえ、まさかと思う振る舞いだったのである。

 霊園の販売代理会社の担当者によると、

「一般的に、更地にしたのに手放さないということはないでしょう。ちなみに当該区画は現在、販売されていません」

 裏返せば、すでに売却されている可能性があるのだ。

 健さんが健在なころ、周辺にはその24時間365日をサポートする面々が集っていた。名優にすべてを捧げてきた、いわゆる「チーム高倉」の男たち。しかしながら彼らもまた、健さんとの距離が近すぎたがゆえに、養女から排斥されていた。何ら制約なくかつてのボスを偲ぶことができるこの墓地は聖地であり、最後の拠り所だったのだ。

「ここが解約されることになっても、これまで通り利用できるように彼らが霊園側へアプローチしたのは事実。ただ、名門霊園だけに1平方メートル当たり100万円を超すカネが必要になってくる。気付いた時には万事休す、だったかもしれません」(先の関係者)

 チームの一員は、

「僕はまだショックが大きいから、行っていない。なくなってしまったことは知っているけれど」

 と、肩を落とすのである。

「亡くなったのが2014年の11月でしょう。僕はその年、一緒に善光寺にもお参りに行っている。数えたら、それはもう34年に亘っていました」

 健さんにとって節分の「善光寺参り」は、欠かせない年中行事なのだ。

「信仰心が深かったから……。パリダカの映画(『海へ~See you』)の撮影中にも、わざわざアフリカから善光寺へ向かうような人だった……。養女が世田谷の家にいたのは18年でしょ? 僕はその倍近くの年月、あそこへ通ってきたんです」

 瞳には涙が浮かんでいる。

「やっぱり、残念というほかないです。お参りするところが、もうないんだもん。とにかく健さんは信仰心の深かった人だから、切なく思っているだろうよ」

■「なぜそんな話に…」

 葬送ジャーナリストの碑文谷創氏が、こう指摘する。

「元来この水子地蔵は、江利さんと健さんとの間にできた子供を大切に弔ってきたもの。そう思い立ち、供養を続けて行こうとする意思決定に、養女の方は関知していないわけです。したがって、生活に支障がない限り、一定期間は現状維持とするのが、死者の想いを引き継ぐことになるのではないでしょうか」

 よしんば、「更地に戻してほしい」と健さんが願っていたとしても、

「口頭で養女の方が故人の意思を聞いていたというだけでは、残された人々は納得しないはず。もちろん、事情があるでしょうから一生涯とは言いません。ただ、更地にするのであれば、周囲に丁寧に説明すべきだと思います。たとえば、水子地蔵を撤去した代わりに、お寺に永代供養を頼みました……などといった報告です」

 実際、前出の森氏も、

「供養したのであれば、それはどんな風に行なわれたのか、もちろん知りたい」

 そう申し立てをするのだ。

 ところで、健さんが養子縁組を考えるようになったきっかけは本誌(「週刊新潮」)既報の通りだが、改めて森氏に語ってもらおう。

「先方の代理人弁護士の話では、12年4月下旬ごろ、伯父が“養子縁組ってなんですか”と相談に来たと。遺作となった『あなたへ』の撮影の際に、共演者の大滝秀治さんから、養子がいることを聞いたそうなんです。弁護士がひと通り説明したら伯父は納得。その1年後に、“養子縁組した”という報告を受けたということでした」

 事実、ふたりは13年5月に父娘の関係となっている。

 しかしながら、大滝秀治の次女ご当人は、

「養女さんのことは悪く思っていません。ただ、戸籍を見ても父が養子縁組をしていた記載などなく、なぜそんな話になったのか不思議なんです。特に母は、“父さんがこんなこと言うわけない”とショックを受けていました。父は冗談が好きな人でしたが、そんな類の話ではないですよね」

 と困惑しつつ、こう継ぐ。

「実は、12年秋に父が亡くなったあと、健さんがウチの家族との食事の席を設けてくれました。その時に、『父が生前、財産分与について、私たちにきちんと話をしてくれていたこと』が話題に出たんです。最近、母とこのことを振り返って、“もしかしたら、それが違う形で伝わってしまっているのかもしれない”というような話をしました」

 取材依頼書を携え、養女の元代理人を直撃したところ、

「見ません。受け取りません」

 と言うばかり。最後に、先の関係者が打ち明ける。

「養女は、『高倉健が最後に愛した女』とされているけれど、実はそこまででもなかった。惚気(のろけ)なんかでなく、“猫っかぶりな性格なんだ”と、チーム高倉の一員に彼は漏らしていましたから」

 アジサイは黄緑から青、そして紅へと色を変える。同様に時を経て、幾つもの「もしも」が重なれば、養女は祀られた子と“きょうだい”となった間柄。しかるに、この度の行状を見るにつけ、アジサイの花言葉が頭を過ぎる。

 それは「無情」である。

「特集 『江利チエミ』との水子地蔵を更地にした『高倉健』無情の相続人」より

週刊新潮 2016年6月16日号掲載

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