清原和博を獲得した元西武球団代表が語る後悔「キヨのそばに居つづけていられたら……」
球界のみならず、日本中に大きな衝撃を与えた清原和博の逮捕。あれから3カ月が経つ今、元・西武ライオンズ球団代表で、現在はプロ野球経営評論家として活躍する坂井保之氏が、清原への想いを「新潮45」5月号にて綴っている。
『清原よ、もう一度打席に立て』と題した記事の中で、坂井氏は清原の逮捕をこう振り返った。
〈この事態には、私も言葉を失った。彼は、私にとって単に、同じ西武球団にいた、というだけの選手ではなかった。
私がこの球団の責任者でいた時分、相棒の根本陸夫とともに、全知を傾倒して獲得した選手だった〉(本文より引用、以下同)
■新興球団として清原がほしい
幾たびかの球団名の変更を経て、「西武ライオンズ」が所沢に誕生したのは1978年。前身の「クラウンライターライオンズ」から根本監督と共に新球団に乗り込んだ坂井氏は、球団の組織作り、特にチームの根幹を形造るスカウト陣を強力に立ち上げ、選手の育成に力を注いだ。当然、PL学園高校野球部の「K・Kコンビ」にも注目することになる。
清原和博
文中では、ドラフトで清原を獲得するに至った過程が詳述されているが、当初、西武内では「桑田真澄と清原和博、どちらの獲得を優先するか」の議論があったという。
〈桑田は確かに、プロ1年生でも、14~15勝は期待できそう。将来はエースとして連続20勝以上も期待できよう。
一方、清原。彼の本領は長距離バッターだ(略)加えて、闘志むきだしのアピールがすごい。観客を文句なしに惹きつける。この性格は絶対にプロ向きだ。しかもスター性100%。新興球団としては、何が何でもほしい素材だった〉
船出して間もない新チームゆえ、イメージアピールが求められる。だから清原で行こう。この坂井氏の主張通りに議論はまとまり、ドラフト指名の方針は決定されることになった。
■キヨのそばに居つづけていられたら……
清原が西武に入団し、グラウンドに降り立った日の印象を、坂井氏はこう書いている。
〈キヨは、でかかった。体中からエネルギーを発散していた。顔はまだ少年らしさを残していたが、ただ、目付きだけは違った。透き通った瞳が対象をキッチリ捉えていた〉
デビュー年で本塁打31本、打率3割4厘、打点78という驚異的な成果を達成した清原に、坂井氏は天才球児をゲットしたことをしみじみと実感した。
清原の活躍には、球団オーナーの堤義明社長も喜んだ。だが、その才能ゆえの周囲の扱いが、清原の何かを狂わせてしまったのかもしれない。
〈堤オーナーも感激して、自分の手元にいるスピードスケートの、かつての世界記録保持者をキヨの守り役にせよと、その場で発令、ただちに送りこんでくれたりした(略)守り役は気を利かし、たまには六本木に連れ出したりした。帰寮が午前2時をまわることもあると伝わってきた。
18歳の若者に、この特別待遇は早すぎたかもしれない。キヨにもたらしたものは、極端なまでの自己肥大だった〉
みかねた坂井氏と根本監督は、「オーナーに言ってキヨを手元に引き戻そう」と考え、その旨を伝えたが、確たる返事はないままだったという。
〈もし、と想う。あの頃、私たち二人の内、どちらかでも、キヨのそばに居つづけていられたら、事態は変わっていたのではなかったかと〉
99年にこの世を去った根本監督も、のちのちまでその思いを引きずっている様子が見てとれた、という。
最後に交わした言葉は思い出せないが、清原に言いたいことは山ほどあり、会えば話は尽きないだろうという坂井氏。文の最後を清原に宛てたメッセージで締め括った。
〈キヨよ。
もう一度打席に立て!
人生という名の打席に!――〉
墜ちたヒーローの胸に届くだろうか。
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