医療の危機で問われる「患者の矜持」〈医学の勝利が国家を亡ぼす 第3回〉
患者が気の毒な立場にあることに疑問の余地はないが、さりとて、つらい死から逃れるためになんでも「使い倒す」という意識でいれば、本人も社会も不幸になるだけだ。医療の、そして国家の危機を前にして問われるのは、患者が「矜持」を持てるかどうかである。
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日本医科大学教授でがん診療センター部長の久保田馨氏
「われわれに共通しているのは、いつか死んでしまうということです。そこからどう考えるかが大事だと思います。(中略)医療をどうやって持続可能なものにしていくかを、医師だけで考えていても解決はしません。医療関係者や患者のみなさんなどで、どうしていけばいいかを考えていかないと難しいと思います」
5月7日、銀座の時事通信ホールで行われた「肺がん市民フォーラム」で、日本医科大学教授でがん診療センター部長の久保田馨氏は、こう語った。ちなみに、演題は「新時代における患者の役割」。
200人ほどの聞き手が肺がん患者と家族ばかりであったことを考えると、おぼつかない命に汲々とする人たちに向けた言葉としては、辛辣に思える。だが、もはや患者も受け身で医療を提供されるだけではすまない――そんなメッセージがこめられているようだ。
実は、久保田氏の前には里見清一氏が、「治療にかかるコスト」という演題で次のように話していた。
「われわれは今まで、コストの議論はほとんどしてきませんでした。どれだけお金がかかっても、命の値段はプライスレスだから、コストは国が考えるべきだとか、医療経済は現場の考える問題じゃないと、今でも医者はそんなふうに言っています。だけど、それで国がもつのか。まず間違いなくもちません」
そこまで話すと、里見氏は前々回で対談した曽野綾子氏の「国費で治療を受けるのはいいが、せめて感謝すべきではないか」という主旨の発言を引合いに出し、こう続けた。
「久保田先生はそれをさらに一歩進めて、受けるだけの立場からの脱却を説かれます。患者さんはかわいそうで、気の毒で、だけではない。それでも何が自分にできるのかと考えるべきではないかと」
むろん、こうした議論の背景には、年間3500万円かかるがん治療薬「ニボルマブ(商品名はオプジーボ)」の存在がある。
仮に5万人の患者が1年間使えば1兆7500億円になる、桁外れに高い薬だが、自己負担分が一定額を超えると、あとは国が払ってくれる高額療養費制度のおかげで気軽に使える。だが、これを無制限に続けていたら「国がもたない」。患者も社会の一員として、自分の「役割」を考える必要がある、というわけだ。
あらためて、久保田氏に講演の趣旨をたずねた。
「患者だからできることもあるはずだと。肺がんは喫煙との関係が明らかですが、医師が主張しても、利害がからむ話なので、政治家やメディアは聞く耳を持ちません。しかし、肺がん患者が禁煙や受動喫煙禁止に向けて取り組めば、説得力も違い、社会を変える力になりうると思う。WHOの報告では、喫煙によって世界で年間600万人が亡くなり、うち60万人は受動喫煙による死者です。喫煙は心疾患や脳血管疾患、認知症にも関係しています。みんなで一斉に禁煙できれば、大幅な医療費削減につながります。また、ご自身ががん患者だった民主党の故山本孝史議員の尽力で整備されたがん対策基本法によって、医療従事者の態度の改善や、医師と患者のコミュニケーションの必要性などが提言され、医療現場の質的向上に効果を発揮しました。患者が社会に貢献できることはあると思います」
続けて久保田氏は、患者が「矜持」を持つことが大事だと説く。
「著名なヴィクトール・フランクル医師がある病院で当直していたときの逸話です。脊髄に腫瘍ができて入院した患者さんは、本を読んだりと有意義にすごしていましたが、病状が進んでそれもできなくなった。そしてある夕方、フランクル先生が回診した際、“今モルヒネ注射をすませてください”と言った。担当医の死亡直前の指示を午前中耳にして、夜中に当直のあなたを起こすのは申しわけないから今打ってほしいと。あと数時間の命だと明確にわかったうえで周りへの配慮を忘れない。人間としての非常にすばらしい業績だ、とフランクル先生は話されました。患者さんは“余命”という言葉を意識されると思いますが、そのとき参考になるのが松尾芭蕉の“不易流行”や“軽み”という考え方です。死はつらいけれど、その中で心の自由をつかむことが、終末期においても重要だと思う。社会は一人一人の尊い命の集合体。その社会に対して個人として何ができるのかを考えることが、個人の幸福にもつながると思うのです」
肺がん市民フォーラムで講演する里見清一氏
■高齢者医療に哲学がない
社会に対して患者に何ができるのか。久保田氏は、
「医療費が自己負担分だけでなく、全体ではどれくらいかかっているのかを意識するのは大事。そうすればおのずとコストへの意識も芽生え、感謝の気持ちにもつながるはずです」
と説くが、自己負担分よりはるかに巨額なのが、先に触れた高額療養費制度による補填である。件(くだん)の「肺がん市民フォーラム」で里見氏は、ニボルマブを投与した際の患者負担について、こう語っていた。
「実際には3500万円かかっても、実際の自己負担は、よっぽど収入がある人でも200万円内外、大概の人は数十万円で、残り97~98%は公の負担で賄われます」
医療費は患者の自己負担が原則3割だが、この制度があるため、だれもがコストを意識せずに高い薬を使い続ければ、里見氏が言うように「国がもたない」わけである。ここで高額療養費制度について、詳しく見ておく必要があるだろう。
導入されたのは1973年10月。厚生労働省保険局の担当官が、その趣旨や仕組みについて説明する。
「高額な医療費を軽減し、患者さんの家計負担を減らすための制度で、国民健康保険や被用者保険、共済保険などすべての保険に適用されます。具体的には、医療機関や薬局の窓口で支払った額が、月の初めから終わりまでで一定額を超えた場合、超過分が支給されるもので、年齢や所得に応じて自己負担分の上限が定められています。また、いくつかの条件を満たすと、さらに負担が軽減される仕組みもある。財源は健康保険料と税金です」
要するに、国民の血税によって命をつないでもらおうという趣旨なのだ。それが近年、さらに“使いやすく”なったという。
「当初、患者さんは窓口で全額を支払い、のちに加入している健康保険に払い戻しを申請し、差額を受け取るものでした。しかし、何十万円、何百万円を一時的に用立てするのを重く感じる方もいましたし、制度を知らずに申請しなかった人も多かった。そこで2007年4月から、事前に認定証を用意しておけば、窓口で上限額を払えば済むように改正されました」
そう話す担当官に、高い薬の登場で、この制度自体が揺らぎかねないのではないか、と問うと、
「おっしゃるように、高額な薬が普及すれば、この給付金制度にとって大きな負担になるといえます」
と素直に認め、懸念をあらわにしたのである。
この制度は、先にも示したように税金を財源に成り立っているが、弁護士の久保利英明氏は納税者の視点からこう注文をつける。
「有権者とひと口にいいますが、主権在民でいう主権者は、国家を支える納税者であるタックスペイヤーと、福祉や医療などで税金の分配を受けるタックスイーターに分かれます。今の日本はタックスイーターが大きな恩恵を受ける一方、タックスペイヤーの負担はどんどん増大している。国費といいますが、タックスペイヤーが納税することで、本来一文無しの国は初めてお金を持つのです。今、少子高齢化でタックスイーターが多数派になってきていますが、年間3500万円かかる薬の話は、タックスペイヤーが文字通り食い物にされている現状に、一石を投じる格好の題材ではないでしょうか。同じタックスイーターでも、未来を支える子供は、みんなのお金で育てていくべきですが、日本の高齢者医療に関しては哲学がありません」
ちなみに、2013年度に高額療養費制度によって支払われた総額は2兆2220億円。このうち後期高齢者のための出費が4分の1を占めている。
■メメント・モリ
話を前に戻そう。治療費が国費で賄われることに患者が感謝の心を持ち、社会に対して自分ができることを見つける――。日本の医療がこれからも持続していくためには、そこから始めるほかなさそうだ。
里見氏が語る。
「患者の意識が、何でもかんでもやってもらって当然の、曽野綾子先生がおっしゃった“使い倒す”考え方では、コストで社会全体を押しつぶしかねない。医療従事者にも患者さん本人にも不幸なことだと思います。患者さんが一番おつらい立場であるのは間違いありませんが、文句や苦情も度を超すと、いわれた家族や看護師も疲弊します。それに、患者や家族の不満は医療従事者、その中でも医者より“弱い”立場の看護師や事務職員に向いやすい。病院窓口の職員などは“待たされる”だの“医者の態度が悪い”だの、自分の責任ではないことで怒鳴られたりします。冬場にマスクをしていると“声が聞きづらい”、外すと“風邪をうつすつもりか”と苦情がくる。また病棟では、患者さんはつらいから、どうしてもわがままになり、家族や看護師に当たる。家族はそのストレスをナースにぶつける。どんなに尽くしても感謝もされず、文句ばかりいわれ続けた結果、鬱になって辞めてしまう。そういう看護師の燃え尽き症候群も、大きな問題です」
看護師が燃え尽きて辞めてしまえば、その補充にもコストが生じる。だが、それ以上に、患者が医療を「使い倒してもいい」と思っていることが、医療の存続を危うくしているのだ。
「今の日本の医療制度は、諸外国とくらべてもすばらしいものです。それを“使い倒し”て国がもたなくなってしまっては、元も子もありません」
と、里見氏。そうならないためにも、患者一人一人がほんの少し冷静になって他者に配慮し、「矜持」を持つことが問われているのである。冒頭で久保田氏の、
「われわれに共通しているのは、いつか死んでしまうということです。そこからどう考えるかが大事」
という言葉を引いたが、桜美林大学老年学総合研究所の鈴木隆雄所長も言う。
「一人一人のコンセンサスとして、75歳、80歳をすぎたらある意味、何が起きても仕方ないというように、死を受容し、身近なものにすること。“メメント・モリ”です。昔は生まれてすぐ死ぬ子供も、結核のため20代で命を落とす人も大勢いて、死がいつも身近にあった。日本人の死に対する文化を取り戻さなくてはいけません。寿命が延びた一面、“死はあってはならないものだ”という刷り込みがあるから、80歳を超えた人が院内感染で亡くなると、医療ミスだと病院を責めたり、天命による人生終末期にあっても、高額医療の是非をよく考えずに使ったりするのだと思います」
だれもが、いつまでも死を忌み、是が非でも生き続けることを選択したときに、どんな悪夢を見ることになるか。次回で検証したい。
「【短期集中連載】医学の勝利が国家を亡ぼす 第3回 医療の危機で問われる『患者の矜持』」より