「勇気をもらいました」「感動を与えたい」コメントに感じる違和感 梶原しげるさんが解説
スポーツの試合や映画の観客に感想を求めたところ、「勇気をもらいました」「感動をもらった」といったコメントが返される様はテレビでよく見かける。
また、選手側が「感動を与えたい」という表現で意欲を語ることも多い。高校球児が「見ている人に感動を与えるようなプレーをしたい」と抱負を述べることは珍しくない。
こうした表現、気にならない人もいるようだが、「感情って人にもらうものなのか」「与えるってエラそうじゃないか」と感じる人もいる。
一体、どのへんに問題があるのか。
新著『不適切な日本語』で、この「勇気をもらう」「感動を与える」問題について考察している梶原しげるさんに聞いてみた。
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フリーアナウンサーの梶原しげるさん
■勇気や感動は与えてもらうものか
私自身は、「勇気をもらう」「感動を与える」といった言い方に、かなりひっかかるほうです。
しかし、妻は、
「いいじゃない。感動して元気になれるんだから。ひねくれたことばかり言っていないで、元気でも勇気でも貰えるものがあるんならどこへでも行って貰ってきたら」
と冷たく言います。
感じ方は人それぞれなのでしょう。
ただ、調べてみると気になる方は多いようです。
NHKの「ことばおじさん」として知られる梅津正樹アナウンサーは、「本来『元気にさせてもらう、感動させてもらう』と言うべきだが、それを省略、強調した」表現なのかもしれないが、「気になる人も多いようだから、気をつけたほうが良いかもしれない」と同局のサイトで述べています。
さらに国立国語研究所に問い合わせたところ、同趣旨の質問を受けることがある、との話でした。答えてくださった先生によれば、スポーツメディアの影響が大ではないか、とのことでした。「勝ちに行く」「結果を出す」も同種の言葉ではないかという指摘もなさっていました。
たしかに「勝ちに行く」も正確には「勝とうと決意して試合に臨む」ですし、結果にはいい結果も悪い結果もあるのですから、正しくは「いい結果を出す」です。
その先生は、あくまでも個人的な見解、と前置きした上で、「こうした言葉を悪いとか間違いだとは思わないが、陳腐でプアだと思う」と仰っていました。
■見ている側を気にするな
たとえば高校球児ならば「見ている方に感動を与えるプレー」を誓うのではなく、「見ている方が感動するプレー」といった表現でもいいのではないでしょうか。「与える」というとどうしても違和感を覚える人がいるでしょうから。
ただ、さらに言えば、役者や芸人ならいざ知らず、スポーツ選手の方は、見ている側の感情にまで配慮なさらなくてもいいような気もします。
特に高校球児は、そんなことを気にしないでいいのではないでしょうか。彼らは見ている人に感動してもらいたくて野球をしているわけではなくて、球を投げて打つのが大好きだからやっているはずです。ただひたすら、悔いのないプレーを全力でやってくれれば十分なのではないでしょうか。
テレビのマイクを向けられて「元気をもらいました」と答えている方も、心からの感想なのかもしれませんが、どこか「定番のコメントを言う役」を演じさせられている感じもします。感想を求められたら、こう答えるのが正解、といった感覚が無意識に身についてしまっているのかもしれません。
でも、「すごく面白かった」「なんか元気になった」くらいの素朴な表現でもいいような気がしますね。
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