「夢の薬」をみんなで使えば国が持たない――対談 里見清一VS.曽野綾子〈医学の勝利が国家を亡ぼす 第1回〉

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ノブレス・オブリージュ

里見 憲法25条で保障されている「健康で文化的な最低限度の生活」に、3500万円の薬も入るのかどうかと、最近思うんですね。

曽野 それは世界的レベルでお決めになったらどうなんですか。

里見 WHO(世界保健機関)が出している基準があって、1人の寿命を1年延ばすためにかけるに値する金額は、一人当たりGDPの3倍以下だという。日本人の場合、2015年のGDPで計算すると1182万円。それが1人が1年生きる値段というわけです。

曽野 で、抗生物質や風邪薬だと……。

里見 全然、1200万円なんかにならないです。

曽野 だから、それだけでよろしいと思いますよ。自分で儲けたお金で贅沢してどこが悪い、って言えばそうですけど、それにブレーキをかけるのが本当のジェントルマンですよね。

里見 ただ、私は今、少し悩んでいることがありまして、財務省の役人や医者に向かってハッキリ言うのは構わないんですが、目の前の患者さんに「あなたが今使っている薬は1回133万円、1年間使うと3500万円だ。それをみんなで使うと、国がもたないんだ」と言って、わかってもらうべきなのかどうかと。

曽野 おっしゃってよろしいですよ。私、言えますよ。雇われましょうか(笑)。だって事実はそうなので、仕方ないですよね。もうひとつは、裕福なエリート層に、使う場合は自費で使ってくださいと運動すべきですね。ノブレス・オブリージュです。ぜひ自費申請していただいたほうがいい。

里見 そういう方々を貴族院議員にするとか。

曽野 勲章をあげてもいい。あるいは、赤坂で美女と遊べるという、よくわからない景品をつけるとか。

里見 麻生副総理が「さっさと死ねるようにしてもらわないと」と、珍しく正論を言ったときも、失言にされてしまった。

曽野 信念をもっておっしゃったのなら、麻生さんはなぜ謝ったんでしょう。麻生さんの発言を聞いて、この人は悪い人だと思ったら、1票を入れなければいいだけのことですから。

里見 曽野先生も「90代で、ドクターヘリを要請した病人がいた」とお書きになって、炎上しましたよね。

曽野 過去から今までSNSを見たことも使ったこともないヤバン人ですから、私、まったく平気です。

里見 90代でも、そこで非常に苦しんでいて、ドクターヘリで運ばなければできないことがあったのなら仕方ない。でも、ただ寿命を延ばすためだったのであれば、さすがに。

曽野 私は救急車もドクターヘリも、母子家庭とか困っている人は除いて、呼んだ人に実費を払わせるようにしたらいいと思いますよ。

里見 とにかく、国の借金が1000兆円を突破している中、みんなが人の金だからと寄ってたかると、そんなに遠くないある日、突然、全部がバタッと倒れるんじゃないかと思っています。今年度から、3年間の社会保障関係費の伸びを1兆5000億円に抑えるという目安が置かれましたが、オプジーボに1兆円かかるとすると、差し引き1年5000億円を削らなければなりません。いっそ、どんどん削ってしまってはどうかと。医者も自分の懐が痛むようになると、もうちょっと考えると思うんですが。

曽野 思い切って平等を貫いたらどうなるか、という社会実験をしばらく続ける方法もありますね。そうしないとわからないんです。

タダほど高いものはない

里見 日本には高額療養費制度があって、自己負担額が一定以上になると戻ってくる。欧米の人たちはこれを理解できないらしいです。ヨーロッパの学会のホームページには「日本は3割負担」と書かれています。「そうではなく、これこれの金額を超えると全部公費なんだ」と伝えても、誰も信じないですね。

曽野 世界からするとびっくりなんですね。私も知りませんでしたけど。

里見 そもそもこの制度は、大けがをしたとか、心臓の大手術をするとか、一生に一度の大勝負みたいなところで、金がなくて死ぬのはかわいそうなので、公費から出すものだったと思います。オプジーボのように毎月、同じものにかかるのは想定していなかったはずで、制度の趣旨にそぐわなくなっている。ただ、商売人は目端が利くから「これで無限に儲けられる」と。今日、財務省でも一人の委員から、75歳以上の高齢者は、保険料をちゃんと払っている人だけが高額医療を受けられるようにすべきではないか、という意見が出ていました。でも、曽野先生は逆に、払える人は自費でやれと。

曽野 それは当たり前ですよ。夫は映画でもバスでも、「僕はそれぐらい払える」と言って全額払います。小学生みたいなイバリ方ですけどね、それがパトロンの精神の出発点です。すべてのものには代価を払わなければならないって、私は昔、習ったんですけどね。タダほど怖いものはない。

里見 タダほど高いものはない。こうしていると、ある日突然、ギリシャのようにパタリと倒れかねません。山本夏彦さんが書いていました。会社がつぶれるときは、ある日出勤すると「つぶれました」って張り紙してあると。しかし財務省は、そういう現実を広報すると嫌われるので、医者に言わせようとしている。

曽野 政治家も、今の制度を変えると痛い目に遭うとおっしゃる。でしたら選挙に勝った瞬間に変えたらどうですか。次の選挙のころには、みんな忘れていますよ。それに医療費の自己負担分も、稼ぎがある人は5割にしたらいいじゃないですか。そうすれば、うちの夫のようなケチは病気になってもお医者に行かないから、適当なときに死ぬ。いいことだらけですよ。私は今、介護人なので、高齢者介護の大変さは実によくわかっています。認知症の介護は個人ではできませんよ。

里見 去年、父が頭を打って、85歳で死にましたけど、正直言って、命だけ助かるより良かったかなって。

曽野 私はもう計算したんです。私は少し収入があって、芸術院から恩給もいただいているから、それで暮らせるうちは、お国に迷惑をかけてはいけないと思ったんですよ。

里見 「お国に迷惑をかけてはいけない」というセリフは、絶えて久しく聞かないですね。

曽野 お国という意識は、私にはハッキリありますね。それは若い人たちということです。社会と言ってもいい。そして、人間には生きる権利もあるけれど、死ぬ義務もあると思うんです。

里見 曽野先生だけですよ。人間は一定の年齢になったら死ぬ義務があるなんて言ってくれるのは。

曽野 私は運命を任せたいんです。神でも仏でもいいんです。それが一番明るい。私ね、セデーションを知らなかった。

里見 薬を使って鎮静をかけることですね。なかなか苦痛が取れなかったら、もう眠っていただく。

曽野 それ、いいと思いますね。私が礼賛しているのは自然死です。それは人間以外のものが決めてくださる。ギリシャ語で、寿命のことを「ヘリキア」と言って、三つの意味があります。寿命、その職業に適した年齢、それから背丈。ギリシャ人は、その三つは人間が変えがたいと認識していた。そういうふうに人間が左右できないことがあると、いろんなことから学ばせなければいけないんです。

里見 ただ、そのセデーションですが、がんの末期の方に鎮静をかけるとなると、ナースがやってきて「家族の同意を取ってくれ」と言う。苦しまないために眠ってもらうのが目的なのだからいいじゃないか。「その結果、死ぬかもしれませんが、いいですか? よかったらサインを」なんて言えません。家族も、肉親が死のうというときにそんな余裕はない。手を握っていてもらうのが一番いいんです。

曽野 だから、もう少し死に親しむほうがいいです。

死ぬまでに何を成しうるか

里見 こういう話、人間はなんのために生き、どのように死ぬべきかというような話は、本来、もっと前にしておくべきでした。3500万円の薬の値段にせっつかれてするのは、非常に哀しいし、残念です。

曽野 そうですね。楽しい話になりませんね。

里見 医者にもそういう意識がない。コストは問題かもしれないけど、現場の問題ではなく、国が考えるべきだと言います。でも、その「国」って誰なのか。国や社会、次の世代とかへの意識がないので、口を酸っぱくして訴えてもわかろうとしない。

曽野 野田聖子衆議院議員のインタビューが「婦人公論」2012年5月7日号に載ったんですね。お子さんが新生児集中治療室に入って、何度も手術して、そうしたら「高額医療は国が助けてくれるので、みなさんも、もしものときは安心してください」と言う。お子さんが元気になって、みな喜んでいるからいいんですよ。でも、驚いたのは、「みなさんのおかげで治療ができて、ありがとうございました」という、ただの一言もないんです。国費で治療を受ければいいんですよ。ただ、受けて感謝するのが人間の条件のように思います。

里見 財務省の役人も言っていましたが、高額療養費制度は明らかに受益者が出るので、政治家は非常に好むんだそうです。

曽野 結局、死なない人は一人もいないのだから、死ぬまでに何を成しうるかということなんでしょう。何でもいい、死ぬ前にどれだけ自分が関心があることをできたか、という貯蓄が要るんです。やっぱり、生が充実していると死にやすくなりますね。それから、現世が楽しいというイメージを与えすぎないこと。私なんか、現世は矛盾に満ちた惨憺たるところだと、徹底して思っているから、死ぬのはいいことだと思えるんです。

里見 それでも私は、現世が楽しいと思っていますけどね(笑)。

曽野 私は違います。ただ、それは私の評価で、絶対に人に押しつけようとは思いません。おいしいものを食べるときとか、瞬間的に楽しいことはありますけどね。私は作家でよかった。作家は「現世は惨憺たるところだ」と言っていられる職業ですから(笑)。

里見清一(さとみ・せいいち)
本名・國頭英夫。日本赤十字社医療センター化学療法科部長。1961年鳥取県生まれ。東京大学医学部卒業後、国立がんセンター中央病院内科などを経て現職。日本臨床腫瘍学会協議員、日本肺癌学会評議員。著書に『偽善の医療』『医師の一分』『見送ル』『医者と患者のコミュニケーション論』など多数。

曽野綾子(その・あやこ)
作家。1931年東京生まれ。聖心女子大学卒。1979年、ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章、2003年に文化功労者。95年から05年まで日本財団会長を務めた。『老いの才覚』『人間にとって成熟とは何か』『人間の愚かさについて』『老境の美徳』など著書多数。

週刊新潮 2016年5月5・12日ゴールデンウイーク特大号掲載

「特集 【短期集中連載】医学の勝利が国家を亡ぼす 第1回 対談 里見清一VS.曽野綾子 『夢の薬』をみんなで使えば国が持たない」より

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