英語での講義は内容のレベルを落とさざるを得ない 明大教授がグローバル教育のおかしさを指摘

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 2014年、文科省は“世界の大学ランキングトップ100入り”などを目的とした、37校のスーパーグローバル大学(SGU)を選定した。SGUがスタートした14年時は、東大が23位、京大が59位とそれぞれトップ100に入っていたが、翌15年には東大43位、京大88位と順位は大幅に下落。新たにランキング入りした大学もなく、SGU制度が始まってから、日本の大学は国際的な評価を低下させてしまったことになる。

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翻弄される赤門

 一体なぜ、グローバル化を目指しながら、グローバルな評価を落とすという不可思議な事態に陥っているのか。その要因のひとつとして「英語」が挙げられる。

 SGUの選定にあたっては、英語での授業数や外国人教員の数を増やすことが求められるのだが、それによって、現場ではこんなことが語られているのだった。

「そう簡単に外国から優秀な人材を連れてくることはできません。そこで『抜け道』が用意されています。文科省は、日本で教育を受け、研究にあたってきた日本人の教員でも、1年間、海外で研究を行えば『外国人教員等』として扱うことにしている。これを利用して、日本人教員を外国人教員の『代替』にもできるのです。しかし、例えば米国や英国で博士号を取られた方が英語で授業をするのと、40代半ばで1年間だけ米国で研究して帰国した方が英語で授業するのとでは、その質は比べるまでもないと思います」(同志社大学の前学長で、同大法学部の村田晃嗣教授)

 要は、文科省にSGUに選んでもらうため、キャンパスでは「外国人教員等」が急造かつ粗製濫造されている可能性があるわけだ。

「そもそも、SGU、スーパーグローバルユニバーシティという名称からして恥ずかしい。それこそ、グローバルな社会では意味が通じない変な和製英語ですからね。スーパーグローバルとは、グローバルを超えるわけで、宇宙にでも行くかのように聞こえるかもしれません」(同)

グローバル人材の育成にあたって、英語力ばかり強調する文科省

■会話よりも読み書き能力

 英語教育の専門家でNHK『ニュースで英会話』講師であり、『本物の英語力』の近著がある鳥飼玖美子氏も、英語教育政策のおかしさを指摘する。

「政府・文科省は、グローバル人材の育成にあたって、英語力ばかり強調していますが、その英語力とは何かと言えば、要はTOEFL等の英語検定試験の点数です。過去問を勉強すればスコアは上がります。しかし、英語検定試験はコミュニケーション能力の全ての面を測ることはできません。スコアは高いのにコミュニケーションができない人がいるのはそのためです。スコアだけにこだわっていると本当の意味での『コミュニケーションに使える英語』の教育は無理です」

 そして彼女は、こんな「現場の声」を披露する。

「私は昨年2月、『週刊新潮』の掲示板欄で、海外、とりわけ英語圏以外の地域で働いた日本人の方に、ビジネスの現場では実際どのような英語力が求められたか、問い掛けたことがあります。何人かからお返事をいただいたのですが、皆さん、それほど流暢に英語を話せなくても仕事でのやり取りは問題なく、むしろ契約書を交わす際などに読み書きの能力が役立ったというお話でした。ここ30年近くの学校英語教育は『会話中心』にシフトしているので、海外の仕事に使えるような読み書き能力が備わるか心配です」

 さらに、

「グローバル人材育成を目指すということで、大学でも英語で行う講義の数を増やすよう求められていますが、専門科目の講義を英語で聞いて内容を十分に理解できるのかが問題。グローバルというなら、留学生のために日本語教育を充実させることが大切だし、学生たちが英語以外の外国語を学ぶことも必要です」

■英語での授業はレベルを落とさざるを得ない

 英語偏重が昂じれば、教養科目の半分以上で英語での講義を目指すと宣言した京大の例をさらに「スーパーグローバル化」し、「半分以上」どころかほぼ全講義を英語で行うと謳(うた)う大学も出てきかねない。そうなれば、その教育を「日本の大学」が担う意味は、もはやそれほど残っていないのではないだろうか。そして、全講義を外国語である英語で行う日本の大学と、英語を母語とする米国や英国の大学のどちらが、質の高い英語(母語)での教育を行えるかは考えるまでもない。

 日本を代表する社会学者、故・清水幾太郎氏の孫で、明治大学商学部の清水真木教授は、「個人的な意見」とした上で次のような実体験を明かす。

「明治大学もSGUに選ばれていて、それ以前からグローバル化に積極的でした。そのため、私の専門である哲学の授業も、英語で行わなければならない日がいずれ来るかもしれないと考え、実験的に半期(半年)だけ、フランス現代思想をテーマにした講義を英語でやってみることにしたんです。授業が英語のみで行われることは学生も承知していましたが、話題が少しでも抽象的なものになった途端、私には学生の顔色が冴えなくなるように見えました。そこで、授業後にある学生に訊(き)いてみたところ、何ひとつ理解できていないようでした」(同)

 また、

「私の英語での授業を理解できなかった学生に、同じ内容を日本語で解説したこともあったんですが、その学生は、日本語での授業も『分からなかった』と答えた。そこで私は、至極当然の事実に気が付きました。日本語で分からないことは英語でも分からないと。つまり英語での授業は、日本語での授業よりもレベルを落とさざるを得ないのです。日本語の授業と同じ内容を英語で教えて、学生の理解が増すことはあり得ないわけですからね」(同)

 グローバル人材を育てるために講義の質を落とす……。これぞまさに本末転倒である。

「特集 『グローバル教育』を掲げて 『東大』世界ランキングを下げた『文科省』の大矛盾」より

週刊新潮 2016年4月21日号掲載

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