「天皇陛下の癌」真の病名を国民に知らせるべきか?〈がん告知を主張した医師の遺書 初公開(3)〉

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故・浦野順文教授

 昭和62年9月、手術に伴って行われた「病理組織検査」によって、昭和天皇のがんが明らかになった。しかし医師団の方針により、その真実は秘されることに。これについて、検査を担当した東大医学部・浦野順文教授は〈誠に恐れ多いことながら、陛下御崩御の後には、当然全ての真実が明らかにされるという理解のもとに、これらの点に同意した〉と「カルテ遺書」に残している。そして浦野教授もまた、末期の肝臓がんに蝕まれていた。

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 この時期、押し掛けるメディアから身をかわそうと、浦野教授はユーモアに満ちた行動をとっていた。

〈マスコミの攻勢が激しいので、27日からはホテル住まいになった。その際に、新聞記者の皆様方から感想を聞かれるので、「標本は美しく、いじわるではなかった。陛下が我々臣民に大御心をたれたまうように標本も優しかった」というメッセージを自宅のドアに残した〉


 実際に教授は27日、一枚の紙にフランス語で、

〈Quelles jolies lames! Elles ne sont pas méchantes〉

 と、万年筆で綴って留守宅の玄関に張り出していた。「何ときれいな標本だろう! それは全く意地の悪いものではない」の意で、

〈こういう表現の仕方は日本語にはなく、パリでアンテルン(レジデント)=注・研修医=をしていた時の同僚との会話を思い出したからである。標本が美しいというのはそのままの表現で、顕微鏡下に見る組織が美しいということであって、診断内容とは関係しない。癌細胞だって美しいし、十二指腸粘膜であっても綺麗だ。標本がいじわるではないというのは、自信を持って診断できたということである。(中略)そういう意味だったのだが、マスコミの方々は、これは悪性ではないと御理解なさったように推察する。その時点では、それ以上のことをいうことは出来ず、わざと主観的な表現にした〉

浦野教授が遺したメッセージ

■侍医長への申し入れも……

 純子夫人が言う。

「病理組織検査の役目を終えた後、主人の体調は再び悪化し、11月の検査入院では肝硬変が進行していると分かりました。主治医の先生に勧められ、12月上旬から再び半蔵門病院に入院したのです」

故・浦野順文教授の妻・純子さん

 いったん「秘匿」の方針に従った浦野教授は、残された命の短さに駆り立てられるように、11月に入るとあらためて侍医団に“真実を発表すべきだ”と申し入れた。が、高木(顯)侍医長がこの提案を受け入れることはなかった。

■“鼎の軽重を問われかねない”

「病理組織検査」を担当した浦野教授が遺した文書

 かくして教授は、

〈現在の日本における社会状態、国民の一般的知的水準、その他から、今回の陛下の御病気を最後まで慢性膵炎で押し通すことは難しいと考え、また事実、それは日本のために必ずしもよくない事と判断した。従って、いつの日にか真の病名を公表せざるを得ない時が来ると思った。またそれは皇室にとっても決して悪いことではないと信じている。陛下は御承知のように、自然科学者であられ、御自身でも真実を尊ばれると拝察する〉

 そう綴るに至った。切なる思いはさらに、長らく皇室医療を担ってきた東大医学部へも向けられた。

〈臨床家自身も開腹時すでに悪性のものを疑い、肉眼所見より癌と実際には診断している。病理学的所見では更にそれが裏付けられている。当初の診断が慢性膵炎、最終診断が悪性腫瘍ということでは、誤診という問題も起こり得る〉

〈こうした場合、途中で診断名を一般社会に対して秘していたことに対して、若干の批判も起こるだろうが、病名の告知という問題、また癌の告知に関する日本人全体の考え方もあり、多くの日本人は我々のとった態度を了解して頂けると考えている。しかし、誤診となると我々の面目に係わる。これは責任が臨床にあるとか、病理にあるとかという事ではなく、今回医師団の一員として参画した東京大学医学部の鼎(かなえ)の軽重を問われかねない問題になるということを危惧する〉

「カルテ遺書」はその直後、

〈従って、全てが終わった時点では医学的真実〉……

 との記述を残し、未完の形で途絶えている。

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(4)へつづく

「特集 一挙公開! 『昭和天皇』へのがん告知を主張した『病理医師』の『カルテ遺書』」より

週刊新潮 2016年3月3日号掲載

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