「天皇陛下の癌」がん告知を主張した医師の遺書 初公開(1)
歴代最長のご在位だった昭和天皇の崩御から遡ること1年、真実を明かさんとし、志半ばで斃れた医師がいた。時代の記憶とともに仕舞われていたその「遺書」を公開する。
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「病理組織検査」を担当した浦野教授が遺した文書
昭和64年1月7日の早朝、111日間に及んだ闘病の末、昭和天皇はお隠れになった。同日をもって、激動の昭和は幕を閉じたのである。
大いなる時代がゆるやかに“臨終”へと歩を進めていく途にあって、御所の周囲では幾多の思いが交錯していた。今回登場する東大医学部の浦野順文教授もまた、その只中にあった。
62年9月、昭和天皇の手術に伴って行われた「病理組織検査」を担当した浦野教授は、標本からがん組織を発見する。が、医師団の方針で真実は秘されることになり、同じ病に侵されていた教授は、ことの行方を見届けることなく、翌年に世を去ったのである。
故・浦野順文教授
■初の“玉体にメス”
教授の残した「遺書」を紐解く前に、あらためて経緯を辿ると――63年9月19日、昭和天皇に突如、大量の吐血があった。ここから「Xデー」へ向けた非常事態が始まるのだが、その前年にも異変の予兆は窺えた。86歳のお誕生日を迎えた62年4月29日、宮殿で催されていた祝宴で食べたものを戻してしまわれたのだ。この時は大事に至らず、宮内庁も「軽い風邪」と発表するのみであった。
が、夏に入り、那須でのご静養中にもたびたび嘔吐されたことから、9月中旬には宮内庁病院でレントゲン検査を実施。その結果、原因とみられる数センチの狭窄が、十二指腸に認められたのだった。
翌日開かれた会議では、侍医団のトップである高木顯侍医長が「手術すべきだ」と主張。史上初めて、玉体にメスが入ったのである。
執刀医は東大医学部第一外科の森岡恭彦教授。侍医長も立ち会う中、腸の通過障害を取り除くバイパス手術は9月22日の昼に始まり、およそ2時間半に及んだ。この時、医師らの眼前には鶏卵大にまで腫れ上がった膵臓の一部が現れた。がんであるのは一目瞭然だったが、患部は切除されず、予定された手術のみが執り行われた。
終了後、高木侍医長と森岡教授、さらに宮内庁長官と天皇陛下の側近トップである侍従長の4人で話し合いがもたれ、「慢性膵炎」と発表することで合意。一方で手術の際、病理組織検査のため患部が一部切除され、病理学研究室の浦野教授のもとに届けられたのである。
教授はこの時、すでに末期の肝臓がんに蝕まれていた。同じく医師である純子夫人(79)が振り返る。
「その年の3月に主人は体調を崩し、東大病院に検査入院したところ、肝臓がんだと分かりました。主治医の先生には、私から『ぜひ本人に告知してください』とお願いしました。医者ですから、しっかり診断結果と向き合い、自ら最後を決めるべきだと思ったのです」
4月下旬、浦野教授は皇居近くの半蔵門病院で開腹手術を受ける。抗がん剤を直接患部に運ぶためのポンプを埋め込む「動脈内注入化学療法」で、5月末には退院。以降も週に1度の治療を続けてきた。そんな折、“重大任務”が舞い込んできたのだった。
文書を手にする純子夫人
■書きかけの形で……
この検査について浦野教授は、所見とあわせ自身の思いを綴った、いわば「カルテ遺書」ともいうべき文書を残していた。そこには、立ちはだかる現実の“壁”と葛藤する医師の信念が、直截に綴られていた。
夫人によれば、
「その文書は、主人が亡くなって半年ほど過ぎた頃、愛用していた黒革の手さげ鞄の中から見つかりました。当時はまだ、新聞記者の方が『遺書らしきものは残っていませんか』と時々訪ねてこられたので、これは大変なものを見つけてしまったと思いました。私一人では守り通す自信がなかったため、病理学者で主人の先輩でもあった東大総長の森亘先生にお願いし、預かって頂きました」
さらには、
「それから数年後でしょうか。自宅で遺品整理をしていたら、今度は主人の机の引き出しの中から、森先生にお渡しした文書の“控え”のようなものが出てきました。中身は同じでしたが、こちらは書きかけの形で残っていたのです」
今回お伝えするのは、この「書きかけ版」。内容の一部始終が世に出るのは、初めてのことである。
■〈粘膜の3分の1くらいが……〉
分量はB5サイズのルーズリーフ用紙に5枚。それぞれ表裏にワープロで印字されており、表紙には横書きで、
〈天皇陛下の癌〉
とのタイトルが。以下、順を追って記していく。
〈9月22日の夕刻、老人科の講師が小さな生検標本2個を持って、病理部を訪れた。当時病理部にいた助手が標本作製の手配をしてくれた。この時の標本作製にあたっては、ベテラン技師が先頭にたって行なった。
翌9月23日は秋分の日で休日であった。
9月24日木曜日の午前中に、助教授が問題の標本を持って、私のところに来た。標本はそれほど難しくなく、癌ということが診断できたので、診断できたという点でほっとした。生検標本は2個とも十二指腸粘膜で、膵(すい)ではなかった。2個あった切片のうちの1個には癌はなく、残りの1個の十二指腸粘膜の3分の1くらいが癌で置き換えられていた〉
がんを発見した浦野教授は、続いて進行の程度を調べる「腫瘍マーカー」の検査に取りかかる。
〈念のため癌のマーカーであるCA19-9(「週刊新潮」編集部注・主に膵臓がんや大腸がんのマーカー)及びCEA(注・主に消化器がんのマーカー)を染めることにした。木曜日の夕刻には、切り余しが出来て来たので、秘書に染色を指示した。この時、助手がCA19-9がよく染まるように、至適濃度に希釈した血清を作ってくれた〉
すると、
〈やはり1つの切片には癌はなく、他の1つの切片の半分くらいが癌で、前回よりやや多く認められた。癌は粘膜固有層を置き換えるようにして増殖し、粘膜下層やリンパ管に癌の浸潤(注・広がり)はなかった。生検採取標本は癌と非癌部の境界で、側方浸潤の部であるが、粘膜固有層に限局するという点で十二指腸原発(注・最初の発症部)でもよいと考えた〉
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「特集 一挙公開! 『昭和天皇』へのがん告知を主張した『病理医師』の『カルテ遺書』」より
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