「私たちより、病院取んのね!」看護師たちの苦渋の決断〈原発25キロの病院に籠城した「女性看護師」の7日間(1)〉
東日本大震災から5年。死者・行方不明者1万8000名の悲劇は記憶になお鮮烈だが、一方、自らの身を捨て他者を救った数多の「物語」も生まれていた。原発25キロの病院の苦悩と再生の1週間を、福島出身のノンフィクション・ライター、黒川祥子さんがレポートする。
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「部長、なんでそんなに冷静でいられるんですか?」
「逆に聞くけど、なんで、そんなに騒ぐわけ? 屋内退避なんだから、ここにいればいいんじゃないの? この病院、私たちがやらないで、誰がやるの?」
「じゃあ、病院は一生、うちの子に責任を持つって言うんですか!」
幼い子をもつ看護師の切羽詰まった言葉が、看護部長・藤原珠世(当時52)の耳に今も残る。
「私、子どもが産めなくなるんですか?」
「がんになったら……」
藤原の前にはひどくうろたえた看護師たちがいた。
■避難か、残留か
福島県南相馬市原町区。福島第一原発から北西25キロに位置する大町病院は、2011年3月15日、開業以来、最大の岐路に立たされていた。
南相馬市の中心部に建つ大町病院は、明治10年開設の「猪又医院」を前身に130年にわたり、浜通りの医療拠点として重要な役割を担ってきた。現在も診療科16、病床188を有する、地域の中心的な病院だ。
4日前の震災当日には、津波の被害者がどんどん押し寄せ、病院は「泥の海」と化した。倒壊した病院経営の老人保健施設「ヨッシーランド」からは、津波にのまれた利用者が搬送された。泥まみれの被災者たちは次々に亡くなっていく。136人の利用者のうち36人の高齢者と1人の職員が犠牲になった。
治療にあたった院長、猪又義光は言う。
「裂傷で頭から血を流す人、ひどい骨折や心肺停止の人も運ばれてきた。助かる人を優先するしかなかった」
まさに「戦場」。そうであっても、この時の藤原部長には「大丈夫だ、乗り切れる」という確信があった。だが、まもなくそこを襲ったのは、福島第一原発事故という予想不可能な事態だった。
3月12日の1号機爆発はまだ、「遠くの場所」の出来事だった。しかし14日の3号機の爆発音は大町病院にまで達し、15日早朝には4号機が爆発。この日政府は、半径20キロ圏内の「避難」指示に続き、20~30キロ圏内にも「屋内退避」の指示を出した。大町病院は原発事故の“当事者”となり、藤原の“確信”はあっけなく吹き飛ばされた。
南相馬市は物流がぴたりと止まり、ほどなくゴーストタウンと化す。迫りくる放射能への恐怖。大町病院はやむなくこの日の午後、外来を閉鎖した。病院にはまだ160名ほどの入院患者が残されていたが、職員は当然、浮足立つ。それを前に、猪又はこう言ったのだ。
「ここでがんばってほしいが、避難するというのなら止めることはできない」
避難か残留か、職員にとって突きつけられたのは、究極の選択だった。それから全患者搬送が完了する21日までの1週間、「屋内退避」というエアポケットのような空間で一体何が起きていたのか。そこにあったのは極限の日々だった。
病院に残るか、避難するか――。看護部長である藤原に、迷いはなかった。
「管理職である以上、避難するなんていう選択肢はない。患者さんがいる以上、やらなければならないの」
部下への思いも同じだ。
「私は決して、“避難していい”とは言わなかった。冷たいと思われたろうけど」
しかし、藤原部長のように逡巡なく選択できた看護師は少ない。それぞれに家族があり、背景もさまざまだ。医療従事者としての使命の前に、家族を守る役割と責任が立ちふさがる。天秤になどかけられない両者のどちらかを「選べ」という、身を切られるような判断を強いられたのだ。
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