浅い海で溺れた「たこ八郎」の新聞切り抜きとネタ帳
『人は見た目が9割』(新潮新書)は、世間の「常識」を覆したミリオンセラーである。だが裏を返せば、残りの「1割」はやはり人は見かけによらないということになる――。元プロボクサーにして元祖「天然ボケ」タレントとでも称すべきたこ八郎(本名・斎藤清作)が溺死したのは、1985年7月24日のこと。享年44。それから三十余年を経て明らかになったのは、まさに見かけによらない、彼の「計算高さ」だった。
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「まさか『たこ』が海で溺れ死ぬなんて冗談だろうと、信じられませんでした。お酒のせいでしょうね。彼はとにかく飲むのが好きだったから……」
涙ぐみながらこう思い返すのは、元世界バンタム級チャンピオンのファイティング原田氏(72)だ。彼は笹崎ジムの同期生として、たこが亡くなるまで親交を続けていた。
「たこはボクサー時代から酒を飲んでいました。そんなボクサーは他にはほとんどいなかった。それでもチャンピオンになったんだから、彼は天才だったんだと思います」
「歴代最も偉大な日本人ボクサー」と評される原田氏に天才と言わしめたたこは、実際、宮城県の農家に生まれた幼少期に左目を失明するというハンデを抱えながら、60年にプロボクサーになると、2年後に日本チャンピオンに輝いている。当時、最軽量のフライ級のボクサーだったが、
「ミドル級のボクサーともスパーリングをして、しかも典型的なブル・ファイターだったから重いパンチを受けまくった。その上、毎晩、飲んでいた。そりゃ、パンチドランカーにもなりますよね」(同)
■赤塚不二夫の教え
しかし、64年に引退し、同郷の由利徹の門を叩いてお笑いの道に転身すると、たこはこの「負」を「正」に変える。ボクサー時代の後遺症を思わせる呂律の回らない話し方と「ボケっぷり」で人気者となったのだ。行きつけの居酒屋の店名から「たこ」の芸名を付けた彼は、「た、たこでーす」と、自分の名前すら口ごもってしまうほどだったが、これがウケたのである。
その存在の可笑しみで「笑っていいとも!」のレギュラーに上り詰めた彼は、失礼ながら「笑わせる」のではなく「笑われる」芸人の代表のように思われた。その証拠と言っては何であるが、「たこでーす」以外に、彼の「芸」を思い出せる人は、そういまい。
だが、たこの飲み仲間で、溺死現場にも一緒にいた俳優の外波山(とばやま)文明氏(69)はこんな話を明かす。
「赤塚不二夫さんに、『面白いことがあったら、ちゃんと書き留めておけ』と言われて、たこちゃんはネタ帳を作っていました。しかも、書いては消してと、推敲も重ねていた。とはいっても、B5判のノートや10センチ四方のメモ用紙のネタ帳に書いてあったのは、『みっつ醜いあひるの子』だとか、『僕は母の愛情に飢えているんです』だとか、何だか訳の分からないことばかりでしたけどね」
他にも意外なことに、
「彼は新聞の切り抜きもしていました。例えばベトナム戦争当時のことです。たこちゃんはピンク映画の合間にやるショートコントで、女の子と一緒に布団に入って、『ベトナムでは戦争をしているのに、こんなことをしていていいのだろうか。いいのだー』なんてやっていたんですが、ちゃんと朝日新聞や東京新聞の記事を切り抜いていた。それでネタを考え付いたみたいなんです」(同)
たこは笑われていたのではなく、笑わせていたというのである。しかし、彼の酒との付き合い方だけは、笑えるものではなかった。
「私の家にしょっちゅう居候(いそうろう)していたので、『絶対に朝、昼は飲みません』とメモを貼らせていたんですが、朝、『トポトポトポ……』と音がするので起きてみると、たこちゃんが酒をコップに注いでいるんです。いつも、大好きなサントリーのホワイトを水割りで飲んでいました。緊張屋だったから、酒が入ったほうが人と話しやすかったみたいですね。でも酒は弱く、2、3杯飲んだらコテッと寝ちゃうんです」(同)
亡くなった日も、朝方、外波山さんらとともに神奈川県真鶴の海岸に着くと、周囲の観光客に勧められて焼酎を飲み、酔ったまま泳いで溺れてしまった。
「小さい頃、地元宮城の松島でよく泳いでいたらしく、たこちゃんは水泳が得意だったんですが……。遊泳地帯がブイで仕切られた普通の海水浴場でしたし、そこから外に出たわけでもなく、決して深い海ではなかった。ところが、気が付くと砂浜から20メートルくらいのところに、たこちゃんが俯(うつぶ)せで浮いていた。目を離してほんの数分の出来事でした」(同)
芸は計算していた節が見られたというが、自身の身の安全は計算できず、たこは海へと帰っていった――。
「特別ワイド 迷宮60年の最終判決」より