服役27年「浦島太郎」で戻った元連合赤軍「植垣康博」未完の原稿
「あんたは総括すべきよ!」。その一言で妊婦がなぶり殺され、ある者は刃物で心臓をえぐられる。四十数年前、暴力によって理想社会が作れると信じ、そのために14人の仲間を殺した集団がいた。当時、連合赤軍の「兵士」として凄惨な現場にいた植垣康博氏(67)が振り返る。
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植垣康博氏(67)
1998年10月、甲府刑務所を出た植垣氏は、浦島太郎になった気分だった。
「若者の顔が変わってみえた。ずんぐりむっくりだったのが、皆が細くなっていたんです。会話も成り立たなかった。他愛もない日常会話が出てこないんです。誰も思想的な話をしたがらないのにも驚きました」
塀の中の27年は、世の中を様変わりさせるには十分な時間だった。
植垣氏が活動家だった70年前後、世は異様な空気に包まれていた。日米安保や沖縄返還を巡って争議が勃発、過激派セクトが武装闘争を繰り広げていた。
弘前大学在学中から左翼運動に加わった植垣氏は赤軍派に参加、爆弾を密造し活動資金を得るための銀行強盗を繰り返す。やがて京浜安保共闘と合流した赤軍派は「連合赤軍」と名乗り、アジトを転々とする。
警察に追われ軍事訓練に明け暮れる毎日。リーダーの森恒夫と永田洋子は、仲間に憎悪と疑いの目を向けるようになる。極寒の山中で凄惨なリンチ殺人が始まったのも、この頃からだ。異性に色目を使った――それだけで反革命とされた。恋心を抱いていた女性活動家が殺された時も、植垣氏はその場に立ち会っていた。
「もう、頭の中は真っ白。でも、革命優先の世界では好きな人が亡くなろうが二次的三次的な問題だった。“戦いで死ぬことによって責任を果たすしかない”と思うしかなかった」
植垣氏が逮捕されたのは72年2月、軽井沢駅前に買い出しに出たところを店員が通報したのだ。
「これでやっと自分たちが犯してしまった問題を見つめ直すことができる」
異臭を放つ服にザンバラ髪で連行される植垣氏は、心でそうつぶやいた。
■今でもマルクス主義者
マルクスの本を初めて読んだのは、投獄されてからだ。革命を目指したのになぜ仲間を殺してしまったのか、「狂気」の理由が知りたかった。77年、ダッカ事件が起きると、植垣氏は超法規的措置による釈放メンバーに指名される。だが、事件の総括なしに出る気にはなれなかった。
刑務所ではヤクザから重宝された。男性器に“玉”を入れたがる者が多く、植垣氏が、その玉の管理をしていたからだ。見つかったら懲罰ものだが、元連合赤軍兵士にすれば訳もなかった。
刑務所を出て3年後、植垣氏は静岡市でスナックを開店する。
「ある日、静岡の不動産業者の甘言に誘われて始めたのが『バロン』だったのです」
店の名は、活動家だった頃の仇名である。半年持てばいいと思っていたが、相談に乗ってくれていた弁護士が毎日のように客を連れてきた。4年後にさらに広い店に移り、33歳年下の中国人女性と所帯をもつ。
「56歳のときに息子が出来て、もう10歳になりました。テレビの僕のインタビューを見て“本当にああいう事やったの?”って聞くんです。聞かれたら正直に答えていますよ」
「今でもマルクス主義者」という植垣氏は、水割りを作る日々の傍ら、長い原稿を書いている。出版社は決まっていないがタイトルは決めてある。捕まってから出所までの27年間を綴った『監獄からの生還』だ。
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