“主人はいつものように出て行った。それが最後になりました” 〈「笹井副センター長」未亡人インタビュー(1)〉

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「あの日、主人は朝5時に起きてきたんです――」

「あの日、主人は朝5時に起きてきたんです。

 主人は当時、心的な疲労がピークに達していました。春には一度入院し、その頃も出勤はしていましたが、家に帰ると疲れ切っていて、ご飯を食べて、お風呂に入ってすぐ寝てしまう毎日でした。まぁ、鬱病ですよね。でも、その日は珍しく早朝に起きていたんですよ。これは普段、東京に行く時のパターンなんです。だから、『出張に出かけるくらい、元気が出てきたのかな』と安心していたんです。そして主人はいつものように朝風呂に入り、いつものように自転車で家を出ていった。それが最後になりました。

 そのうしろ姿は深刻そうな状態とは思えなかった。ですから、数時間後、警察から連絡をもらった時には、“えっ、人違いじゃないですか!”と言ったくらい、“死”をにわかにはとても受け入れられませんでした」(未亡人)

遺書の中身

 笹井氏の“異変”が見つかったのは、8時40分。心血を注いだCDB隣の建物の階段踊り場で首吊り自殺を図り、搬送先の病院で死亡が確認された。

 遺書には、家族宛て、理研の幹部宛て、小保方氏宛てのものがあった。家族宛ては、A4用紙にワープロで打たれ、「芳樹」との署名があったという。

「遺書の中身は、当時発表した通りです。家族宛てには、『今までありがとう』『先立つことについて申し訳ない』と書かれていました。確認してほしいと言われ、他の方々への遺書にも目を通しましたが、小保方さん宛ての遺書には、『STAP細胞を再現してください』という内容の言葉もありました。また、どの遺書にも、〈マスコミなどからの不当なバッシング、理研やラボヘの責任から疲れ切ってしまった〉というのは、共通して書かれていました」(未亡人)

(2)へ続く

週刊新潮 2016年2月11日号掲載

「特集 『あの日』から初めて口を開いた! 黒い割烹着『小保方手記』に『笹井副センター長』未亡人単独インタビュー」より

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