スタジオ裏でイスから落ちても「竹田圭吾」膵臓がんの終末

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 ジャーナリストの仕事が「伝える」ことであるならば、彼は名に恥じず、その“死にざま”でも何かを伝えようとしたのかもしれない。1月10日、膵臓がんで亡くなった竹田圭吾氏(享年51)。彼が最後まで燃やし続けていた仕事への執念を、番組共演者が語った。

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「本人は病気のことをそれほど細かく周囲に伝えていませんでした」

 と、さる親族は言う。

「大学生の娘と高校生の息子がいますが、子どもたちにも詳しくは言っていません。本当にテレビでニュースを伝えることが自分の生きがいで、頑張ろう、頑張ろうと……していました」

 その“頑張り”の凄まじさについては後述するとして、簡単に竹田氏の経歴を振り返ると、慶応大学卒業後、スポーツ誌の記者を経て、2001年から10年まで「ニューズウィーク日本版」の編集長を務め、テレビの情報番組のコメンテーターとしても活躍する。「議論の時も少数派に回り、多数派にクエスチョンマークを付ける」(前任編集長・藤田正美氏)姿勢が共感を呼んだのか、10年にフリーになった後も声はかかり続けた。

 一方、13年にがんが発覚。手術、抗がん剤、免疫治療を続けながら、ツイッターでカツラ着用を明かし、番組でがんを告白するなどして注目を集めたが、昨年末から病状は坂を転げ落ちるように悪化していったのだ。

「11月頃から、とても痩せられたな、と感じるようになりました」

 と言うのは、『とくダネ!』『Mr.サンデー』で彼と席を並べていた、女優で作家の中江有里さんである。

■握りしめた拳

「12月になると毎週、番組で竹田さんとご一緒しましたが、様子が変わっていくのがぱっと見てわかるくらいでした。最初の週では杖を持ってこられていて、“階段を上がる時だけつく”とおっしゃっていたんです。それが次の週には、階段だけでなく、歩く時にはずっとになって、その翌週はもう車椅子をお使いになっていました。だから、本当にお辛いんだな、と」

 その頃は既にペットボトルの蓋を開けるのにも苦労するほど。最後のテレビ出演となった12月22日放映の『とくダネ!』でも、舞台裏ではこんな光景が見られていたという。

「オープニングの時、コメンテーターはスタジオの裏で呼ばれるのを待つのですが、その時、竹田さんはイスに座り直そうとして、転げ落ちてしまったのです。痩せたとはいえ、背の高い竹田さんが崩れ落ちた瞬間、涙が出そうになりました。番組中も、“今痛いんだろうな”というのがわかるんです。こらえている“気”が伝わってきて……。でも竹田さんは拳をぐっと握りしめ、顔をしかめないように頑張っていらっしゃいました」

 改めてこの放送を見ても、竹田氏は平然とコメントしているように見えるけれど、その裏には、かくも激しい闘いがあったのである。

 中江さんが続ける。

「最後に交わした言葉は“良いお年を”になってしまいました。しかし、その時も竹田さんは“番組に出るのが生きがいだから”とスタッフに伝え、1月後半の出演を決めていたそうです。テレビに出て喋ることで自分に発破をかけていたのだと思いますが、壮絶な生命力を感じました」

〈治療が辛いのは確かだけど、がんになってよかったと感じることもいくつかある〉

 竹田氏がツイッターに遺した言葉だ。身をもってがんとのひとつの闘い方を伝えた竹田氏だが、この答えだけは明かさないまま、あの世へと旅立っていった。

「ワイド特集 大人たちの通過儀礼」より

週刊新潮 2016年1月21日号掲載

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