普天間騒音訴訟 費用の倍が戻ってくる! 移住民が続々訴訟へ 〈沖縄県民も知らない「普天間基地」裏面史(3)〉

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 沖縄在住のジャーナリスト・惠隆之介氏の報告によって明らかになる、基地と住民を巡る複雑な歴史。第2回で取り上げたのは、借金に汲々としていた農家が、“軍用地主”へと変化した様である。1946年から約6年を費やして行われた普天間基地の土地所有権の特定作業は、戦災により土地台帳が焼失したゆえに“自己申告”に頼らなければならなかった。結果、不正申告者が続出し、現在は「地権者たちが主張する面積が大きすぎて実際の面積と違いすぎる」(沖縄防衛局の担当者)という状態になっている。仮にこのまま軍用地返還となれば、地権者の主張から大幅削減し、帳尻をあわせるしかない――かつて、泡瀬(あわせ)地区の米軍施設返還の際にも、同じような事態があったという。

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 話を普天間基地に戻そう。地元からさしたる反対もなく基地が完成すると、他にもキャンプ瑞慶覧(ずけらん)、キャンプ・マーシー(76年返還)、キャンプ・ブーン(74年返還)等が宜野湾村に建設された。この結果、ピーク時で村の54%が軍用地となり、耕作地も半分に減ってしまう。

 通常なら耕作地を失った農民は窮乏する。だが、実際にはそうならなかった。むしろ収入が増え、人口も激増する。地代だけでなく、大規模な雇用が発生したのだ。米国民政府は基地運営のために人材募集を始め、給与を琉球政府職員の3〜5倍の水準に設定。このため、50年には1万4000人の農民が募集窓口に殺到する。当時、沖縄の若者にとって基地従業員は憧れの職業だった。村には、また、基地建設労働者の宿舎が設けられ、就労者はピークで3000名を数えた。沖縄最大の施設だ。

 そして62年7月、宜野湾村は村から二段跳びで「市」に昇格する。人口拡大のスピードは、もはや「町」の規模をはるかに超えていた。沖縄返還はこの10年後である。

■着手金約2億1900万円、成功報酬約1億1300万円

 それから約半世紀――、昨年6月、那覇地裁は、国に対し合計約7億5400万円の支払いを命じた。普天間基地周辺の住民約2200人が、米軍機の騒音で日常生活を妨害されたなどとして、約10億円の損害賠償を求めた訴訟(普天間基地騒音第2次訴訟)の判決である。

 この訴訟の後ろで何があったのかご存じだろうか。

 裁判への参加人数を増やすため、市議や活動家達が市内をまわって、「1人7万円の訴訟費用を払って原告になったら倍以上のキャッシュバックがある」とアピールしながら参加者を募っていた。その多くは基地が出来てから移り住んだ住民である。結果、原告弁護団には着手金約2億1900万円、成功報酬約1億1300万円が入るものと計算されている。

 また、この判決によって、後から転居してきた住民が次々と裁判を起こし、3次訴訟、4次訴訟もあり得る事態となった。普天間基地は、その存在を否定する者にとっても、利益を生む存在となっているのだ。

 宜野湾市では、今年1月24日、市長選が行われる。普天間移設推進派の現職市長と、翁長知事が推す移設反対派の候補との激突になる。政府も注目している選挙だ。

 沖縄県民は、戦争に翻弄されながらも、基地と生き、今日の繁栄をつかみ取ってきた。ところが、今では基地問題を「人質」にして弄んでいるかのようだ。それは、「ウチナンチュウのしたたかさ」なのか、「反基地」と結びついたグロテスクな住民エゴなのだろうか。「答え」はもうじき出る。

「特別読物 沖縄県民も知らない『普天間基地』銃口と金の裏面史――惠隆之介(ジャーナリスト)」より

惠隆之介(めぐみ・りゅうのすけ)
1954年、沖縄コザ市(現沖縄市)出身。防衛大学校を卒業後、海上自衛官、琉球銀行を経て現職。シンクタンク「沖縄・尖閣を守る実行委員会」代表、『誰も語れなかった沖縄の真実』など著書多数。

週刊新潮 2016年1月21日号掲載

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